2012年1月30日月曜日
心魂を考える
堕落人間の心魂の在り様を観察すると、思考は思考のままであり感情は感情のままで、思考して納得しているはずなのにその思考が意志発動に繋がらない。感情を覚えながらも感情が意志衝動を起こすまでに至らない。御父様の在り様と比べてみればよくわかる。御父様は思考してどうすべきかの判断が見えれば、その通りに行動される。神様の余りにも孤独でかわいそうな心情を覚えれば、何とかして差し上げたいという衝動に突き動かされて行動される。思考が意志に変容され、感情が衝動に変容される。堕落人間は意志を発動させるほどに思考されていないとも言えるが、納得しながらも行動に出来ないのを見ると思考は思考の範囲に留まり続けて意志発動に変容することが無い。感情に於いてもそうであり、心の琴線に触れて涙まで流しながら、かと言って余程の事でないと感動が衝動的行動に変容することも無い。思考から意志、感情から衝動への流動性がなくて、凝り固まった個体的思考であり自己の感情の域を出ない。流動性が高まれば意志して行動しながらより深い思考を起こさせ、感情が衝動的行動を起こしながらより深い心情を啓発させる。一方通行から逆の流れも起こしながら、心魂はより深く、より高く、より大きくなっていく。堕落人間の頑なな思考、頑なな感情、そして行動パターンを変える事ができない頑なな意志で、その関係性に流動性は殆ど見られない。御父様の思考は地上を制覇し霊界を貫き、その思考の中に神様も思考される。御父様の感情は天宙をかき抱き、その感情に神様の心情までも包み込まれる。御父様の意志はやると決められれば宇宙の在り様を変えてでもやり遂げるのであり、神様のみ旨に対する絶対性を上回りこそすれ妥協されることはありえない。そうやって御父様の心魂の在り様をいくらか表象することはできるけれども、私達が見なければならない私達と御父様の心魂との違いは、根底に思考感情意志の流動性と変容性が見えてくる。私達は瞑想もし、祈祷もしながら、受け取ったみ言葉が意志発動に繋がり、受け取った心情が意志衝動を起こすように、思考が意志に、感情が衝動に変容する術を受け取ろうとしている。
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