2012年1月2日月曜日

霊界で御父様に会えるか

死の門を潜って地上の意識を捨て、霊界の意識に目覚めて行くときに、霊界で御父様にまみえることができると多くの兄弟は思っている。地上で地上的な意識で御父様を認識することと、霊界で霊的な意識で御父様を認識することとは異なっている。地上で御父様と心情因縁を結んだから、霊界で御父様にあうことができると思っているけれど、心情因縁を持つことと心情因縁を持った気分でいることとは異なる。多くの場合、気分に留まったままで満足していて心情因縁を結ぶまでに至ってはいない。はっきり言って、霊界で御父様にまみえるどころか、御父様を覚えてさえもいない。肉体を脱いで死の門を潜っていくと、先ず鉱物を肉体生命として形成する力であった生命体が、肉体を脱いだ第二の私の存在となる。この生命体は誕生以来の全ての記憶を刻んでおり、死の門を潜ると自分の生涯のビデオテープでも見るように全ての記憶が現れる。それはこの生命体によるものだ。その時には祝福を受けたこと、御父様に出会ったこと、すべての記憶が私と共にある。しかしながら生命体のままでいつまでも留まっているわけではない。霊界へと入っていく為にこの生命体も脱いでいく。生命体を脱ぐと私の根源にほど近い心魂体が残る。心魂体は私が強く印象に残っている記憶のエキスだけを保持しており、記憶が表面的な気分に関連するものは生命体と共に脱ぎ捨てていく。さらにその心魂体すら脱ぎ捨てて霊の体で行くところが霊界であり、よって、御父様という存在があってもなくても、それなりに生きていけるだろうという感覚であるのなら、霊界に足を踏み入れた時点で御父様を殆ど忘れ去り、御父様の存在は何億光年も離れた遠い存在でしかない。それは今の私が前世を何代も遡って、人類始祖の犯した罪を私の記憶として残していないのと同じことだ。心情の因縁は確かに地上だけで結ばれる。だけれども食べるのも忘れ、寝るのも忘れるほどに深く関わることで心情圏へと踏み込むのであり、好きだ嫌いだぐらいの気分では極めて表面的であり、即ち地上的感覚的であって内的霊的な心情圏に近寄ってもいない。本当は無茶苦茶怒鳴られ、恨みさえ覚えるほどの仕打ちを御父様から受けながら、それでも御父様に付いて行く為に嫌う感情を主管して整理して乗り越えなければならず、その悶々とする過程を経ることで裏口から心情圏へ踏み込んでいける。ニコニコされる御父様を慕わしいと思う感情から深みの心情圏へと入っていくのは、その方が正当な道なのかも知れないが、私のように、御父様御父様と口にしながら物語に登場する王子様でも慕うような素振りを見せる姉妹を見て白々しく思うひねくれ者には正当な道は難しいだろう。立ち上がれないほど傷つけられて、やっと心情圏を訪ねていく。

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