2012年1月10日火曜日

修練会

み言葉は堕落人間である現代人にとって非常に難解だ。特に本体論で語られるみ言葉は聞いたそのままを頷けるものではなく、何度も何度も反芻しながら、今まで生きてきた既成概念を壊して新しい概念を消化吸収していく牛の力を必要としている。私達は相変わらず先天的地上で生活しており、その行動パターンは旧態依然の既成概念で思考したことに拠っている。霊界を無視した地上というこの次元世界だけを活動範囲として生活することに慣れているから、より深いみ言葉として本体論で語られる、霊界を把握できる霊的な概念を備えなければ理解できない内容にはついていけない。しかし何度も何度も反芻していくと、微かな雲間が見えてその向こうに広大な青空が広がっているのを確信するように、地上次元の割れ目が見えて、その先に何処までも見渡せる別様の世界が広がっていることに気付いてくる。だからと言ってそのまま新しい世界、後天的な地上と霊界がひとつになった新しい世界に突入できるわけではない。訓読と合わせて生活実践が必要であるように、思考と合わせて愛の実践が必要であり、それでこそみ言葉をみ言葉として正しく受肉できる私になれる。四大心情圏がどんなものかどれほど想像したとしても、家庭を持って知る四大心情圏の意味がその想像を超えるように、どれほど頭をひねってもわからなかったみ言葉が、愛の訓練の過程で理解へのゲートがあっさり開いたという経験は、誰もがひとつやふたつは持っているはずだ。それこそがみ言葉理解の正攻法であり統一教的だと思う。しかし、だからと言って通り一遍読み流すだけ、聞き流すだけといったように、よく口にする条件的にでもというような、或いは私は頭が悪いからどうせわからないと言うような、最初から諦め気分では入るものも入ってこない。そしてどれだけ実践でと思ったとしても空回りすることになる。過去に動くだけ動いたけれど累々たる失敗の過去をどれだけ積み重ねてきたことか。私は本体論の修練会に参加しましたと得意顔で言うなら、それは御父様がその修練会にひとりひとりを招待されて証書まで戴いたその意味を理解してはいない。本体論を通して私は御父様と共に後天時代へと入っていかなければならない。そうであるなら理解も出来ないでいて、もう修練会に参加しましたから等とはとても恥ずかしくて言えるものではない。参加したことが偽りではなく真実として参加したことになるように、本体論を理解して生まれ変わらなければならない。

0 件のコメント: