2012年3月22日木曜日

腰掛け

「腰かけ」という言葉をよく使う。ウエイトレスで働きたいと言う者は100%が腰かけだ。就労を社会奉仕として認識するか、生活手段だと認識するかの違いは大きい。当面の生活手段としてアプライするのを腰かけと言う。認識がどうであろうとやることは所詮同じだから、どう捉えようと同じ事だと思うかも知れないが、認識の違いで天と地の差が出てくる。この動機の違い、認識の違いは時間を経るに従って外的様相を目に見えて変えて行く。動機が異なればその結果としての実りは異なるからだ。原理の生活化という言葉をよく口にするが、み言葉は公的なものであり生活は元来私的なものだ。本当は逆で、私的生活の公的原理化とすべきではないかと私は感じる。言われるがままに歩んでいるつもりなのに、生活と原理はいつまでも乖離して、生活が原理化されそうにはないと多くの兄弟は感じるだろう。その感覚は正しく、生活が原理化されるそんな理想の状態が見えるためには、或る意識の目覚めが必要となる。その自分革命は内的霊的なものなので人それぞれ異なるし説明できるものではないが、無理に言葉にするなら、受動的意識から能動的意識への変革と言うことになるだろう。何の為の信仰かという問いを掲げたとき、その答え如何によっては信仰にも腰掛け的な信仰がある。み言葉に出会い御父様に出会えた歓びで溌剌として歩み、形ある理想や希望に燃えているうちはまだ腰掛け的な信仰段階だ。その形ある理想や希望が粉々に砕けたとき、腰掛け的信仰も砕け本物の信仰が芽を出してくる。信仰としての理想や希望は、外的にイメージできる理想や希望とは違っている。教会を離れて教会を批判する元食口と名乗る者達は、自分の描いていた理想や希望を砕かれたことで教会を非難している。自分の描く理想や希望は、たとえそれが信仰的気分を含んでいたとしても個を中心とした枠から出ることは無い。自分を中心とした家庭、自分を中心とした社会、自分を中心とした宇宙、そして自分あっての御父母様であり自分あっての神様だ。信仰としての理想や希望とは全体的なものであり公的なものだ。自分が否定される立場で芽生える理想や希望こそが本物だ。

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