2012年3月2日金曜日

信仰路程

私達の中に歪んだ形で形成されている信仰内容がある。それは財力であれ権力であれ、それを得てしまうと信仰が揺らぎやすく、なるべくそういったものから距離を置いた方が信仰を保ちやすいと思っている。だから経済的貧しさを良しとし、決定して指示采配する責任を負う立場も嫌う。しかし保つほどの信仰内容とは一体何だろうか。確かに自分の一存で動かせる金があり、使える人や組織がある責任者は、行動に対して多くの避難を受けやすいし、一歩間違えば背信のレッテルを貼られてしまいかねない。でも周りは私をどう思おうとも、周りの目が私の信仰を決定する訳ではない。批難覚悟で、結果責任を引き受けることを覚悟で、それでも自分の良心に鑑みて行動したのであれば自分の信仰を失うことはない。私が信仰だと認識しているものも、実は信仰だと思わされ信仰らしさを被った堕落性だという場合が往々にしてある。責任を引き受けようとしないのは自己保身の為のみ旨からの逃げでしかない。護ろうとしているのは信仰ではなく堕落した自己だと言うことを、自分自身にはっきり宣言しなければ絶対信仰の道などとてもおぼつかない。信仰という言葉で一括りにしているけれど、信仰には段階的ステージがある。信仰ステージの段階を上に行けば行くほどその権限は大きくなり、受け取るものも多くなるけれど、一歩間違えば千年をもって負債を返すほどの多大な禍根を残すことになる。段階を上り詰めるほどにその恐怖と対峙しなければならないのが本来の信仰の道だ。ヒマラヤ山脈の峻嶺に上り詰めることが精神的高揚を受け取ると同時にどれ程危険であるかを想像できれば、信仰ステージを上って行くことの意味を少しは理解できるだろう。信仰の道には過去の信仰者の屍が積み上げられており、その上を踏み締めて登っていかなければならない。私達が出会う試練の局面毎に、討ち死にした彼らの内的霊的状況が再現される。試練を超えて足を踏み出す一歩に、彼らの超えられなかった恨と私に対する懇願が集中する。

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