2012年3月17日土曜日

感覚的愛

人は老いる。老いてその形は崩れて行く。どれほど美形を誇っていても、どれほど滑らかな凹凸に心酔していても、丸みのある丘は崩れて見る影もなくなり、潤いのある地表は荒れ果ててゆく。外的な表れは私の一部にすぎないのに、外的なことに殆どの意識を置けば、魂の在り様を蔑ろにしながらその棲家だけを整えることに精根を使い果たしていく。そして私の歓びは肉体を通して受け取る感覚的歓びのみだと信じ、肉体礼賛に終始する。愛を地上のことだけに留めようとすればエロスに限られてしまうだろう。エロスだけで人間は満足するものではない。エロスに偏れば偏るほど愛の本質から遠ざかり、愛を得ているつもりなのに愛の渇きを覚えていく。潤いに満ちた生命の源泉だと疑わなかった愛と言う名のエロスは、霊界を切り離して地上にのみ意識を向けさせ、他を切り離して自分にのみ意識を向けさせ、更に、心魂を切り離して肉体にのみ意識を向けさす。どこまでもどこまでも自己中心に向かわせるものを堕落的エロスは含んでいる。全体があって個は生きる。全体が優先されて個は為に生きる存在になれる。真の愛があってエロスは活きる。真の愛が優先されてエロスはその個に陥りやすい魅惑を公的に貢献させる。真の愛が、愛と呼ばれていた愛的括りの全てを死の境地から生命圏に引き上げるだろう。老いるに従って、求めども求めども、エロスの神は遠ざかって行った。どれほど懇願しようとも、若返りの為に精根を注ごうとも、それでもエロスの神は時の霊の配下にあり、青年期を超えて老年期には生き永らえることができないでいる。しかし真の愛を受け取り差し出すことができるなら、エロスの愛でしか受け取れないと思っていた愛に酔う感覚を、より深く、より高く、より広く酔いしれることができるはずだ。その時、感覚的なエロスの愛はその次元を上げたと言うことができるだろう。

0 件のコメント: