2012年3月26日月曜日

今日の想い 386

裁判で実力のある弁護士を雇おうとするのは、論理を操って相手を否とは言わせない袋小路まで追い詰める為だ。天が判断する罪の有無とは別に、人間の判断に任されてしまっている罰則の部分で、相手の人間の口を封じ込めることで罰から逃れることが出来る。天が直接に関与できない堕落社会であればこそ、判事や弁護士がいて裁判が必要なのであり、霊界地上界がひとつになって天が直接関与できれば、罪を犯そうにも犯せなくなる。霊界地上界がひとつになるのは時間の問題であるけれども、未だサタン的、堕落的人間は天の判断を無視し、論理にものを言わせて相手の優位に立とうとする。人間の思考を万能とする限り、本質とは関係の無い取引きが跋扈し続ける。そのように論理を操ることで、行動を正当化したり非難したりしても、それで本質自体が変わることなどありえないが、論理に長ければ良心が影を潜め本質が見えなくなってくる。全知全能の是非を問い御判断の誤りもありうる御父様かと言うことと、私の救いから始まって人類の救い神様の解放を為される真の愛の実体とを、同じ土俵に上げて論議しようとしている。全知全能の是非を問うことは、私自身が全知全能でない限り無理な相談だ。であるにも関わらず御判断の正誤を私が判断できることなどどうしてありえようか。理屈をこね回せばこね回すほど私は御父様から遠ざかり、救いから遠ざかっていく。み言葉を思考だけで理解できるという傲慢さを彼らに見るし、自分の心と体の闘いを認識してはいないか、或いは既に自己の矛盾性に妥協している。すなわち救いを必要とはしていない。それを否定するのであれば愛の減少感が恨みに変わったものを胸の内に隠しているはずだ。時が経れば経るほどに、共産主義者と同じ偏狭思考と恨みの轍にはまり込んでいくだろう。彼らが論理をもって闘いを挑むなら、私は論理を超えた天への精誠をもって闘いを受けるだろう。

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