2012年3月24日土曜日

「知る」ということを考える

聖書に出てくる「知る」という言葉の中には、現代の地上的意味での「知る」という言葉でさらっと流せない部分がある。現代人にとっては聖書の表記に問題があると言えなくもないが、言葉ひとつひとつに込められている霊的な深さを、聖書を手にする者全てに伝えることは難しい。特に現代の、言葉を極めて外的地上的な把握に留めている場合、その本質の意味を深く掘り下げることがもともと困難ではある。しかしそれで良しとしたり諦めたりするのではなく、求める意志を常に保持しながらみ言葉に対するとき、閉ざされていた霊的な深みに分け入ることができるようになる。「知る」という言葉の聖書の使われ方を見るとき、知るという言葉の霊的な意味を理解できる。そういった追及心の必要性は御父様のみ言葉を訓読するにも当然当て嵌まり、祈り求める姿勢なくしてみ言葉に宿る心情の深みに分け入ることはできない。心情の深みとは御父様が開拓された霊的世界、霊的宇宙の深みでもある。ところで、「知る」という言葉だが、「善悪知るの木」、更に「アダムはその妻エバを知った」と続き、「カインはその妻を知った」、そうしてソドムゴモラを滅ぼす為に来たみ使い達を保護したロトに向かって「お前のところに来た人々を出しなさい。我々は彼らを知るであろう」と言ったソドムの民。「善悪知るの木」は取り敢えず置いておいて、「知る」という言葉が「ひとつになる」という意味で用いられ、敢えて抵抗ある言葉にすると「孕ませる」という意味で用いられている。神様の天地創造を言う場合、陽陰に分けられたものがひとつになって新たなものを造られた過程であると言え、即ち孕ませた過程を創造過程と言うこともできる。創造された新たな対象に対しても、「生めよ殖えよ地に満ちよ」と言われ、ひとつになって孕んで繁殖することを願われている。孕むということを外的なイメージでしか表象できない霊的無知人間であるけれども、私の中で熟考の末の閃きであるとか、悩んだ末に一つの選択を導き出す場合、それは内的霊的な知る過程であり、それは霊をひとつにして孕ます創造過程を為していると言える。私自身が新しい自分を見出す場合、内的霊的に孕んだ結果を新しい自分として見出すのであり、逆に、私が墜ちるのも悪なる霊と授受し、ひとつとなって孕んだ悪の結果を墜ちた自分として見出している。「知る」を「認識する」とも言うけれど、理解し認識した事柄は私の中で内的霊的に孕ませた結果対象であり、「知る」とはそういう深い意味があることを納得すれば、内的霊的な創造と外的地上的な創造の原因結果の関係を理解でき、私達はその原理を持って全てを主管していく。「汝自身を知る」とは、新しい私の創造を言う。

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