2012年3月29日木曜日

今日の想い 388

人間は目覚めている間は意識の存在だ。意識が五感を通して受け取るものを認識しようとしている。意識が情報をどう認識するかは人それぞれに拠って異なり、また一人の人間に於いても意識という光の当て方によって認識は大きく異なる。自分が認識したものが絶対に正しいと、最終的な判断をすべきではない。自分の判断が正しいという決めつけが大きな落とし穴であり、身動きが取れなくてその後の認識に正しく光を当てることができないでいる。意識は自我の光とも言えるが、血脈の中の堕落的なものは自我そのものに混入されて受け継がれているのであり、意識に既にサタンから受け継いだ堕落的なものが存在している。根源が既に偽りの存在であることを受け入れなければ、御父様の本質的価値は全くわからない。堕落の性品として表れ、私の血の在り様として流れて蠢くものへの吐き気をもよおす霊的気分を味わえない者に、救いへの渇望や救いを差し出される御父様への本質的感謝の感情はわからない。御父様の言動や行動、御父様の指示のもとに教会が関わってきた摂理内容やそれに伴う副作用、そのひとつひとつを論(あげつら)ってどうこう言うことに、救いに繋がる何の霊的生命要素も感じ取ることはできない。堕落的死亡圏のなかで糞尿をかき回して遊んでいるに過ぎないだろう。腐臭を覚える投稿や遣り取りの多いのを見ると、自分の霊的生命をどうしても受け取りたいという切羽詰まった者が、食口の中にどれだけいるのだろうかと思わされる。活きたみ言葉を自らの意識で屈折させて、死んだ概念として受け取るならば、同じみ言葉という言葉の地上的なものだけを使いながら、別の堕落的存在に変わっただけのことだ。み言葉を最初に受け取った当時の感性を思い起こし、そこから出発し直すべきだ。

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