2013年1月26日土曜日

今日の想い 526

悔い改めをもって赦しと救いの恩赦に与るのであり、それなくしては恩赦どころか御父様の願いに応え御父様と一つになろうとする自分ではない。私達は悔い改めは間違いを犯したことに対するものだと信じているから、間違いを犯すほどの位置にはないので悔い改める事柄はないと、心のどこかでそう思っている。しかし本当に悔い改めるべきは私の在り様だ。間違いは結果として現れたのであり、その結果に対する原因が私の在り様としてあることを突きとめて、それに対して悔い改めなければならない。現れた結果のみに注目しているので、いつまでたっても原因である自分の在り様については悔い改めず、結果的に負の遺産(レガシー)を延々と積み上げていくことになる。御家庭に対する批判も、教会や責任者に対する批判も、自分は今まで間違いを犯さなかったことを盾に口角泡を飛ばしているが、位置にはなかっただけのことであり位置に着けば途端に間違いを犯すことは目に見えている。霊的背後を見るなら、私の責任はないと思っていた教会や責任者の間違いも、私の在り様を原因としていることがはっきりと認識される。さらに御家庭の問題と把握される事柄は特にそうであり、御母様の位置でその釈明を要求する者がいるがとんでもないことだ。それは霊的自殺行為だ。だから教会や責任者に対しては黙して語らず、ではなく、御父様の願いを中心としてひとつになろうとすれば自分はどうあるべきかを問わなければならない。声を上げることが問題ではなくて、声を上げる者の殆どが傲慢から声を上げていることが問題だ。口を紡いでいることが問題ではなくて、口を紡いでいる者の殆どが卑屈と無関心から黙っていることが問題だ。祝福は戴いたものの、祝福の種から芽を出させ成長させるに十分な心魂の土壌が必要にもかかわらず、あまりにも痩せすぎているか汚染されている。グループに属する者は熱量があるが汚染されている。教会に属する者は汚染は免れているが心魂土壌が痩せて熱量が無い。悔い改めは間違いを犯したことだけでなく、本来はこの私の心魂の在り様に対する悔い改めが必要だ。そこにメスを入れるのは余りにも痛いので無意識的に避けていたが、これからは意識してでも心魂改革が必要になってくる。

基元節を越えて

地球の回転に逆らって、世界の文明は西に西に向かうことで発展してきた。しかし歴史の或る時期の一点、東へ流されて人類発展を止められ、文明進化を逆戻りして最初の地点からのやり直しを神様が決意した時があった。ノアの事件だ。今で言うと大西洋辺りに位置していたアトランティス大陸の沈没が、即ちノアの時代の洪水審判だ。アトランティス大陸が沈没して遥か東方の古代インド辺りに箱舟は落ち着く。意識の在り様も肉体の在り様も、肉体に受肉した霊人体の在り様も、現代のそれとはまるっきり違うので、箱舟の物語をそのまま視覚的イメージとして思い起こすことはできない。視覚的イメージとして捉えているものは象徴にすぎない。人類が地球という星の全体的認識を外的に持ったのは長い人類歴史の極々最近のことであって、外的地上的意識だけでは理解できない古代当時の内的霊的意識と内的霊的認識があった。大洪水が起こってアトランティス大陸が沈没した意味は、人間の内的霊的意識が深く沈んで外的地上的意識を起こす大陸へ大移動したということだ。人類が文明を西に西に移動発展させながら地球を一周させたからこそ、地球という星の全体的認識を外的に持つことができた。文明は環太平洋摂理の出発と共に、堕落以前の位置(アトランティス大陸)を遡り、更に戒めを受け取る以前の位置(レムリア大陸(現在の太平洋の位置))で再出発を果たす。それは女性時代の実質的幕開けでもある。御母様という聖霊実体を中心として、神様の相対となるべく期待されていたかつてエバの再出発であり、それは堕落への落とし穴にひた走るエバではなく勝利された御母様とひとつになって霊的実体を持たれる御父様に相対できる地上的エバ(神文明)の出発、そして完成だ。まだ見ぬ環太平洋文明が、完成した地上的エバとして、天宙の中心で燦然と輝いているイメージとして内的霊的に見せられる。それは御父様の地上天国創建の第一ブループリントでもあると思う。地上の様相、大陸と海の様相がどう変わるかは分からない。前にも書いたが、「平和の主人、血統の主人」にはハワイが陸続きになると言うようなイメージを想起させる個所もある。実際どうなるかは御父様のみぞ知るということなのかも知れないが、それが大陸であれ今と変わりない環太平洋地帯であれ、アトランティス時代には内的霊的意識のみの時代を経、更に洪水以降の時代には外的地上的意識のみの時代を経たように、そして人類に新たな内外の意識、霊的意識と地上的意識を合わせもつ時代が環太平洋文明として開かれた。私も含めて基元節の本当の意味がわからない者達が殆どだろうが、霊界と地上界がひとつになるのであり、私達の意識も霊界と地上界に開かれるのであり、見て聞いて触れる感覚世界も認識も変わらざるを得ないのであり、それを驚天動地と表現せずどう言い表せるだろうか。

2013年1月21日月曜日

今日の想い 525

私達は、中心者の指揮命令のもとに行動するという訓練を長い期間受けてきた。献身生活は軍隊生活そのものだ。前線主義という言葉に何の疑問も挟まず、弾(たま)を込めての販売前線であり、アンケートを抱えての伝道前線だった。私達は堅固なピラミッド組織の積み石のひとつひとつであり、ピラミッド頂点で指揮命令する中心者を頭脳として戴いて、積み石の全てが規律正しく同じ戦略プロセスを周到する。私達はそれぞれが考えてこの方法がいいと判断した訳ではなく、与えられるそのままのプロセスを疑問を挟まず行動だけすればよかった。一軒残さず飛び込みをかけ、アプローチブックで説明し、契約にこぎつけ、展示会に繋げ、ビデオセンターに繋げ、1DAYに、3DAYに、そして7DAYに、、と言うようにプロセスは決まっている。しかしこの行動要求に応えようとするなら、私の感情は完全に否定されなければならない。それは悪い感情だけではなく良心的、道徳的感情さへも否定される。私達は今尚、万物復帰や伝道というのはこの擦り込まれた行動を指しているという印象から抜け出せない。一軒一軒しらみつぶしに飛び込み、ひとりひとり声をかけて当たっていく、今はそれほどの実績に対する切迫感は薄れているにしても、それでも、その当時の嫌悪感が伝道と万物復帰の言葉を聴けば蘇る。ひょっとしたらトラウマのように苦しめられるのは私だけかもしれないが、御母様が七年路程だ伝道だと言われるのを聞いて、嬉々として喜び受け止める食口はそういないだろう。それはあの厳しい前線主義当時にまた返らないといけないという恐怖感に苛まされるからだ。しかし私達はその擦り込まれた伝道への印象、路程への印象を綺麗に洗い流し、本当にウエルカムな喜ばしい印象を持たなければ出発から躓いてしまうだろう。基元節に聖酒を戴いて過去の罪を洗い清めるなら、私が嫌悪感を持って認識しているみ旨への悪い印象をも綺麗に洗い流すべきだ。本来の伝道は、自分の感情を押し殺し決められた行動に専念するという機械的なものではなくて、伝道対象者と同じ目線に立ち、相手への深い共感からくる自分の感情を溢れさせながら、救いへの道、祝福への道を開いてあげることだろう。基元節の再祝福を受けると同時に生まれ変わって、シガラミのない真っ白な内的世界で天の父母様の心情だけが息衝く、そんな私になるべきだ。魂が傷ついているのはこの世の人たちではなくて食口達だ。教会を去って反対する者やグループに組する者達も含めて食口達が病んでる。それぞれに傷ついて、それぞれに病んでいる。心魂の傷も病も持ち合わせた食口達に、再祝福を与え、基元節を超えさせて、私達はどう変わろうとしているのだろう。父母様はどう用いようとされるのだろう。

2013年1月20日日曜日

今日の想い 524 信じることから意志することへ、、

フランスの哲学者、アランはこう言った。「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ。」と、、。幸福で笑うのは感情であり受動的だ。しかし笑うことで幸福になろうとするのは意志であり能動的だ。意外とこのアランの言葉は、感情だ意志だ、受動だ能動だと能書きを垂れるよりもすんなりと頷ける。もし長い信仰路程で疲れている食口がいるなら、彼の記した本に目を通すのもいいかも知れない。み言葉訓読への深みもきっと増すはずだ。この論式でいくなら、たとえば、「健康だから動くのではない、動くから健康なのだ。」となる。そして勿論、「御父様の心情圏にいるから涙を流すのではない、涙を流すから御父様の心情圏にいる。」だ。この意志する姿勢、能動的姿勢こそが、内外の歩みに於いて前進的発展をもたらすだろう。私達は弱くなり折れかけた翼を修復し、子女として再び、御父母様の願われる霊的高みへの御父母様の心情圏に舞い上がらなければならない。地上的なしがらみの茨に遮られ、内的霊的に締め付けられて身動きできなくなった私を解放しなければならない。伝道、そして氏族復帰。やらねばならぬことはやらねばならぬのですと分かっていても、動けない自分がいる。それは動けないのではなくて動かないのであり、分かっているのではなく分かっていない。更に言えば、分かろうともしていない。百歩譲って、外的な様々な事情が伝道や氏族復帰を遮っているとしよう。教会への悪いイメージや度重なる献金要求もそうかも知れない。しかし本当にそんな外的事情で私が受け取ったみ言の霊的生命力は、み言の影響力は弱ってしまうものだろうか。それよりも先ず御父様が打ち立ててこられた勝利圏、多くの大会行事や宣布式を通して為された勝利とは何か、更に御父様の勝利圏と私との関係性を分かっているのだろうか。分かろうとしているのだろうか。勝利されても地上は何ら変わってはいないし私への影響はないと思ってはいないだろうか。正直に言うと私はどこかでそう思っている自分がいる。その自分が祝福の価値さえも曇らせて見せないようにしている。御父様の勝利圏も祝福の価値も、ただおぼろげにあると思っているだけで、分かってもいないのにどうして伝道したいと思い氏族復帰したいと思えるかと、自分に問うだろう。しかし堕落の自分に問うことを起点にすれば、それはどこまでも堕落的であり否定的だ。幸福だから笑うのではなく笑うから幸福だという、幸福が先か笑うのが先か、感情が先か意志が先かという問いに変えると、笑うという意志が先だとなる。行動に出なければ、即ち意志しなければ御父様の勝利圏に入れないしその意味は分からない。御父様の勝利圏が及ぶから行動するのではない。行動するから御父様の勝利圏が及ぶ。

2013年1月15日火曜日

今日の想い 523

自分の良心に聞いて判断すれば、どちらが正しくどちらが間違っているかは自明の理だ、と言うのが彼らの言い分だが、正しいか間違っているかの判断は私にはなくて御父母様にある。御父様の願われるみ旨については、私はどうすべきかの判断を自分でする位置にはない。さらに自分が良心だと思っているものも、御父様が良心に従えと言われる意味での良心ではない。良心は一方と他方を秤にかけて判断しない。良心は良心の衝動、善の衝動として意志を発動させるのであって、判断する思考が良心に働きかけるのではない。思考を超えて私に働きかけるのが良心だ。だから私は私の判断で教会側についている訳ではない。彼らは執拗に責任者を非難する。それは富裕層を貧しい労働者が非難したのと全く同じ構図で、その意味でも彼らは共産主義者だ。原理用語を口にする共産主義者だ。私腹を肥やしているだとか権力を牛耳っているだとか、それをまともに信じてグループの肩を持つ食口が少なからずいることに腹立たしさを超えて唖然とする。御父様に短くない人生の相当期間を訓練されてきただろうに、その結果がこの有様だ。どんな責任者が立ったとしても彼らは難癖をつけて非難の攻撃を止めないだろう。責任のない位置で無責任に責任ある者を追求する。御父様の平和理想ではなく、堕落人間が描いた御父母様不在の地上的なユートピアを平和理想とし、その幻想を追っかけている。普通の反対派と違って極めて悪質なのは、精誠を合わせて築いてきた御父様の基盤を根こそぎ奪って、彼らの幻想に酔いしれる為の酒や祭りの材料に費やしていることだ。彼らが帰って来る道は既にない。印を押されていない御方を担ぎ上げ、その神輿を高々と掲げて崖っぷちに突進していく。その祭りの後の悲惨な結末は、私にもありありと見えている。彼らは砕け散りながらも、それでも黒魔術にかけられ戯言を言い続けたまま、深い霊的眠りから目覚めない。

2013年1月14日月曜日

今日の想い 522

イエス様が十字架に架かられ肉体を捨てられたように、御父様は闘病の果てに肉体を離れられた。イエス様は十字架の後に霊的に復活されたけれども、御父様は既にヘリコプター事故により実体で復活されておられる。イエス様は三弟子からも見捨てられた形になり、一人で十字架の摂理を背負われたけれども、ヘリコプター事故の際は、御父様が三銃士と言われる御孫様達が御父母様を護られた。この事故の僅か三ヶ月前に七男の御子女様を後継者として立てられたのであり、この擁立と、思惑が外れたグループそして背後で彼らを操るサタン的存在の焦りがこの事故の直接的な霊的原因であることは間違いない。私達は全ての出来事を偶然に起こったかのように受け止めているけれども、特に摂理的事項は表面的出来事の背後で熾烈な霊的戦闘が繰り広げられている。イエス様が十字架にかかられた当時も、事ある毎に誰かは十字架刑にされたのであり、イエス様の事件が特別国中の注目を受けて為されたという事ではない。その重大な霊的意味を表現に表す聖書だから全人類が注目するイメージとして表され受け取られているように、このヘリコプター事故も、確かに飛行事故だから大変ではあるものの、不運にも数ある事故の一つに御父母様が遭われたとしか捉えないだろう。しかし時を経れば経るほどにその霊的事実が明るみにされて背景がわかり、歴史に残る天宙的一大事件であることを認識するようになるだろう。御父様の闘病についても、御父様は無意識の状態、痛みを感じない眠った状態で床に着いておられたと思っているかも知れないけれど、麻酔を打たれて気付いてみたら手術は終わっていると言うのとは訳が違う。口から通された管を噛み切ろうとされて歯を痛められたという闘病様子を聞いてもわかるように、御父様は確実に意識を持ち、その時を待って命尽きることを意志されながらも、しかし一方でその時までは肉体の死に打ち勝とうとされ、十数日の壮絶な戦いを戦い抜かれて肉体を離れられた。イエス様が十字架で亡くなられるそれ以上の凄惨な最後を、それはイエス様は流された血で地上を変えられたけれども、御父様は歯を砕いてその御意志を地上に流された。生涯を通してみ言葉を語られた同じ口で御意志を地上に流された。地上は御父様の意志が杭打たれた。地上を御父様の意志が貫いた。その間私は何をしていただろう。同じように食べ、同じように眠り、同じように笑って同じように生活していた。普通に心配もしたけれども、ごく普通の心配だった。おそらく子供が病気の時の切実さ以上の切実さが、そこに込められていたとは情けなくも言えない。私は重大で切実な御父様の戦いの期間、真剣に尋ねようともせずに、知らない立場に落ち着いたまま負債を積み重ねていたらしい。御父様に正しく出会った者、御父様に救われた者でありながら、三度否定したペテロの比ではない、大きな心情的裏切りをしでかした格好になったかも知れない。

2013年1月13日日曜日

今日の想い 521

25年前、当時ノースカロライナにいた私のもとに家庭を持つ為妻がやってきた。その頃ミュージカルの移動公演が近くの劇場にきたので、休みの日に合わせて二席の前売りを手に入れ妻と二人で観劇した。レミゼラブルだった。そうして25年経って、ホリデーシーズンに合わせて封切りされた映画、レミゼラブルを二人で見に行った。同じレミゼラブルだが今回はミュージカル映画だ。見ている景色は異なるが流れる懐かしい調べを介して、舞台や若かった妻が隣にいる空間が蘇り、当時と同じ匂いに包まれた。切ないメインテーマ曲が映像と共に流れるのに浸りながら、当時の記憶と今とを往来しながら物語とは別の空間を見渡していた。家庭出発はレミゼラブルの公演を二人で見ることから始まった印象がある。呼び起こされた記憶から芋づるのように繋がる当時の出来事。人気のない長距離バスの停車駅で彼女を待っていたこと。ノースカロライナの田舎町で家庭を出発したこと、小さな店で神経をすり減らしながら営業を重ねたこと、長男の誕生、一年おいて長女の誕生、そして長男の大病。押し付けられるように味わってきた悲喜交々を消化できないまま時を重ねた。それでも蕩減と責任分担の顔を持つそれらの出来事は、悲しみは悲しみなりに、喜びは喜びなりに、歳を経る毎に私の中で実って熟成されて意味を為し、私にその秘密を打ち明けてくれる。記憶に残る出来事の経過や背景は薄れながらも、内的霊的な実りとなって存在感を持って魂の中で広がっていく。歳を重ねるということが、内的霊的実りを刈り入れることだと言うことがこの歳になってわかってくる。基元節を目の前に控えて、私も、家庭も、教会も、世界も、そして宇宙も、新しい出発点に立とうとしている。受け入れられるかどうかに拘わらず、私も家庭も教会も世界も、そして宇宙も、否応なく次元を上げる。善果にしろ悪果にしろ抱えた内的霊的実りを携えて超えていく。出発に際しての準備不足は、今更愚痴ることは辞めてしまおう。いつの時も過去を悔いながらもそれが前進を阻むなら、悔いることさへも悔いることになる。悔いるなら改めるのでなければ、未来に足を踏み出すことはできない。人類誰もが、基元節のその日を超えて、もはや以前に返ることはできない。その日を知ろうが知るまいが、その意味を知ろうが知るまいが、天宙にまたがる全体変革を迎える。霊が大挙して押し寄せ、霊の大洪水、大氾濫となる。摂理を潜り抜け、御父様の訓練を受けた者なら、泳ぎ切ることができるはずだ。

2013年1月10日木曜日

今日の想い 520

過去があり、現在(いま)があり、そして未来がある。私は現在を生きている。生まれて死ぬまでの過去であり未来は私という意識に貫かれてはいるが、私が生まれる以前の過去、私が死んだ以降の未来にまで私の意識は貫かれてはいない。それでは生まれる以前の過去に私は存在していないのか。死んだ以降の未来にも私は存在していないのか。食口は霊界の存在を認めていて、死んだ以降を霊界で暮らすと信じてはいるが、霊界は時空を超越しているにも関わらず霊界を地上生活同様時空感覚で捉えている。私達も含めて存在と時空を切り離しては認識できないのが現代人だ。唯物的感覚もそこに端を発している。霊界に私の存在を置かなければならなくなった時、時空、特に空間の枠を外される感覚は、地上で空気を呼吸していたのに突然足場のない水の中に突き落とされた感覚に似ている。勿論地上に生まれるにも産道を抜けながら(母親が胎児を出産する時間感覚と胎児のそれとは異なり、胎児に取っては長い一つの路程)地上生活を準備するように霊界生活の準備期間が用意はされているが、所詮霊界生活は地上でどう生きたかに拠っている。地上生活が霊界とどう関わっているか。今は霊界は地上に取っては無意識圏であって否定することも不信することもできるが、近い未来無意識圏に意識が入り込めば、誰も霊界を否定できる者はいなくなる。私が生まれる以前の過去も、死んだ以降も、私の意識は貫かれることになる。そうなって初めて私自身は血統の一部であることを明確に把握するだろう。親への想い、子への想いは断ち切れないものがあるが、血統が存在基盤であるがゆえにそうなることを知らずにその感情を味わっている。今は霊界へ意識は持ち込めないので、サタンの血統であっても血統転換して御父様に繋がる血統であっても同じ人間に変わりはないと思っているが、霊界への意識が貫かれると、血統の根源が何であるかは、私という存在を肯定するか否定するかという存在自体に関わることがわかってくる。私は自我意識を越えて血統存在である血統意識を持つと、私の一生に限定されない過去にも未来にも生きる私を認識する。

2013年1月9日水曜日

実体み言

彼らの御父様に対する認識の根本的問題は、「御父様は実体み言であられる」という認識に欠けることだ。過去にも現在も様々な宗教が存在している。そしてそれぞれの宗教の中には真理が含まれている。内的無知である人間が、宗教を通して内的霊的知を探求し無知を克服しながら今日まできたのであり、科学が発達したように宗教も発展してきたのであり、その真理は信じるに値するものだ。御父様が示して下さった新しい真理は、それだけで宗教を凌駕するものがあって、御父様の功績はその意味でも人類史上最大のものであるけれども、しかし御父様の価値は、新しい真理、み言葉を人類に示して下さったこと以上に、御父様御自身が実体み言であられることにある。だから私達にとって決定的に重要なことは、御父様のみ言葉を信じること以上に、御父様の人格(神格と言うべきかも知れない)を信じることにある。聖書ヨハネ伝の冒頭に、「始めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。言が神様であるなら、御父様という神様の実体を私達はこの目で見、この耳で聞いたのであり、更に神様の実体の願いにこたえ、神様の実体と同じ心情圏を共有した。確かにみ言葉はどのようにでも解釈できるかも知れない。理解度は人によって、あるいは経験によっても異なってくるからだ。しかし実体み言、神様の実体が肉体に宿って地上を生きられたことは、否定できることでもないし解釈によって異なるものではない。見えない神様をこの目で見たのであり、神様の言葉をこの耳を通して聴いた。新しい真理は真理へのアプローチという意味で新しいし、勿論新しい言葉を用いられた部分もあるが、基本み言葉は宗教的、或いはキリスト教的言葉を使われている。私達は御父様を外してみ言葉だけを受け取ろうとする人と、御父様の人格を受け取りその説明としてみ言葉を受け取る人との違いをはっきり理解すべきだ。前者は目新しさはあるとしても偉大な宗教指導者に会っただけであるのに対して、後者は実体み言であられる御父様を受け入れた者だ。相続したレガシーが私の中で生きるのではなくて、見た聞いた通りのみ言実体であられる御父様が私の中で生き、御父様の生き様をその通りに述べ伝える私達になるべきだ。

2013年1月7日月曜日

今日の想い 519

献金、万物復帰、伝道。願われるみ旨であっても、その言葉を聞いただけで暗い顔にさせる重いものを受け取ってしまう。その言葉に嬉々とした感情を覚える食口は今では稀だろう。人間が感情の生きものであることの所以であり、それらの活動を行ってきたことで恩恵よりは否定的な結果が残ってしまったという体験がそうさせる。人間としての意識のベクトルが地上に向いている限りは、この世的恩恵に触手が動くのであり、霊界を信じ霊的恩恵を受け取りたい自分だとわかっていても、やはりこの世的恩恵の方に偏りがちだ。ましてや信じるに至らない者達を勧誘しようとすれば霊的恩恵などわかろうはずもなく、どうしても相手の感情に否定的波風を立ててしまうし、それによって自分の感情もその余波を受けて悲観的になる。み言葉を受け入れる伝道が大きく躍進するとすれば、地上人間の意識のベクトルが霊界に向き、霊的事実、霊的恩恵への触手が大きく動く時だろう。天地の仕切りが完全に消え失せて人々の意識が180度変わると言うなら、基元節を越えてもしそうなるなら、一瞬にして地上の摂理は進むだろうけれども、そこまでの奇跡的条件が我々にない以上回り道をしながらみ旨を進めて行く以外ないと思う。それはこの世的恩恵を餌にする囲い込み作戦だ。私に繋がれば、或いは教会に繋がればこの世的恩恵、地位名誉財産を得る実力や方法を得ることができるという餌だ。手かざしすれば病気が治るとか、御題目を唱えれば活力がでるとか、胡散臭いとは思っても事実それで病気を治している教団もあり、実際に活力が出て証しとなっている。正直に言って今の我々には何もない。餌としてのこの世的恩恵がない。私達は意識のベクトルが霊界に向き、神様や神霊に向いている者達だけを対象にし救済すればそれでいい訳ではない。人類の救済を本気で考えるなら、そして天地の仕切りが完全に消え失せる奇跡的条件がないなら、この世的実力を備える回り道しかないだろう。御母様が七年路程を宣言された以上、早急に実力を備え、見せて誇れる証しの実体となり、この世的恩恵をもたらす光の存在となることで氏族や彼らの意識をみ言葉に、霊界に、神様に方向転換させることができる。基元節を越える私がどうなるべきかを模索してきたが、七年路程の宣布と共に、未だおぼろげながらでも暗闇の中に薄ぼんやり見えてきたものがある。

2013年1月6日日曜日

今日の想い 518

御父様が地上で摂理されておられる間は、その都度摂理的大会が開かれ、摂理理解への修練会を開かれ、食口は表面的に見れば振り回されるように御父様を中心とした摂理的行事に合わせざるを得なかったし、合わせるべきだった。それ故に個人的な条件、家庭的な条件、氏族的な歩みは後回しになっていた。その後回しが常套になってしまって終には無視状態になってしまっている。しかし残した条件、実体的歩みは、摂理的行事に合わせたことで帳消しになるわけではない。御父様と共に歩みながら、勝利的歩みを直接に見て触れてきた我々は、今や第二の真の父母となって、私が実体的に御父様の勝利路程の足跡をたどっていくことになる。氏族メシヤとして氏族的長子権を復帰し、氏族的父母となり、氏族的王となっていく路程が私に残されている。個人は家庭を正しく立てようとする過程で立つのであり、家庭は氏族を正しく立てようとする過程で立つ。氏族は本来国を正しく立てようとする過程で立つ訳だけれども、三者会談で氏族復帰をもって同位同参できるとされた。サタンにかけ合って頂いた讒訴圏を免れる恩恵がどれほど大きいか。しかし堕落的見地を未だに引き摺る私は、氏族復帰がどれほど大きな障壁として立ち塞がっていることだろう。天国は一人で入るものではなく家庭単位で入るものだ。家庭を持つことで個の意識から家庭の意識へと次元を上げて、個のために存在していた私は家庭のために存在する私となる。祝福を受けて祝福家庭としての私達は、祝福家庭としてこうあるべきという理想型を持っていて、それを備えて天国へ行けるはずだと思っている。それもままならない状態で氏族復帰をどうのこうのという意識にはなかなかならないだろう。自分の子供もままならないのにそれ以上に氏族復帰への意識を持てるだろうか。しかし家庭が祝福家庭としての理想型を備えなければ氏族復帰への道が閉ざされる訳ではない。個人としての理想型を備えていないにも関わらず家庭の理想型を言うのであれば、家庭の理想型を備えていなくても氏族復帰を標榜すべきだろう。御家庭に於いても、御子女様の問題は現実としてある。アベルの子女に対してカインの子女の支えが足りないからそうなっているという認識を持っている。その理解を氏族メシヤに当て嵌めるなら、私の家庭の問題は氏族の支えが足りないからそうなっているとも言え、私が子供に対して直接対決で解決できないものを、子供の背後からの応援で解決していくことになる。カインの応援が必要になる。幸か不幸か私達は氏族復帰から逃れる道はない。氏族が立たなければ家庭が守られず、家庭が立たなければ夫婦一体圏が守られない。そうであればなんとしても氏族復帰する決意と覚悟を供えることだ。

2013年1月4日金曜日

今日の想い 517 (女神イシスと御母様)

御母様は御父様の娘であり、妹であり妻であり、そして母でもあられる。よって御父様は、娘の御母様に対しては父であり、妹の御母様に対しては兄であり、妻の御母様に対しては夫であり、そして母の御母様に対しては息子であられる。かつて霊的感性の鋭かった時代が遠い過去にあったが、彼らが見た霊的事実は今や神話や伝説とだけしか伝わってきていない。彼らの神秘体験という見させられた霊的事実は、心魂世界を超えて忘却の河を渡った霊の世界であり、そこには霊の心魂存在化への渇望、更に肉の存在への渇望が渦巻いている。神話や伝説は、霊達の、存在への生々しい渇望の事実を表している。エジプト神話にオシリス神が登場する。オシリスの妹であり妻である女神イシスは息子ホルスを産み、オシリスを殺そうとし更に八つ裂きにしたオシリスの兄弟セト(ホルスの叔父)に対して父オシリスの仇討ちをする話だが、イシスは魔術を持って老婆に化けたり若い女性に化けたりもし、関係性の複雑さもさることながら、女神イシスはオシリス((オシリスという神霊の位階に達した複数霊を指しているかも知れない))の母でもあるという、何とも理解できない気持ち悪さが残る神話だ。しかしこの神話で特記すべきことは、女神イシスが、娘、妹、妻、母、祖母、若い女、という女性の全ての位置に立っていることにある。御母様は女王に至る全ての女性の位置に於いて勝利されているのであり、今は聖霊実体として、聖和された霊的御父様に対して立ってもおられる。オシリスは本来は王の王オシリスとして君臨すべきだったけれども、冥王として黄泉の国を司るに留まり、女神イシスは忘却の河の向こう岸に物言わぬ寡婦として立っている。霊界から心魂界、地上界への存在への渇望を満たしてくれるもの全ては女神イシスによって産まれるが、正しく母の位置に立てなかった事実が堕落世界という死亡世界を産んでしまった。御母様は御父様を勝利された御父様たらしめたのであり、その意味で御父様に対しても母であられる。御父様は黄泉の国の冥王ではなく、万王の王、霊人体を纏った神様として天宙を司る御父様であられ、御母様は失敗した女神イシスではなく、勝利した女神イシスの位置に立って、本然の世界を産みなおす女神であり母神として立っておられるのかも知れない。

2013年1月3日木曜日

今日の想い 516

腕や足を切られて奪い取られる者に向かい、寛容であれとは言えない。頬を打たれるのとは訳が違う。ましてや奪っていった者達が奪われる者に対して、信仰者でありながらどうして争い事を好むのかと進言までする。傲慢極まりない態度にあきれかえる。盗人猛々しいとはまさしくこのことだ。確かに教会内にもグループに対して告訴まですることを好ましく思わない者達もいる。しかし歓び勇んで戦う意志を差出す訳ではない。教会の基盤がもぎ取られ売り払われているのに、その痛みを自分の痛みとして少しも感じないのだろうか。全体の痛みを自分の痛みとして感じない者達に限って、戦いの矛先を収めるべきだと言い張る。カインは供え物がとられなかったとき、アベルに矛先を向けた。グループの活動を御父様は認めておられない。認められない愛の減少感から教会に矛先を向ける。矛先を向け、事実腕や足を奪っておきながら如何にも教会側の方から先に牙を剥いたようなポーズを取る。彼らが何をしでかしたかは彼ら自身が一番良く知っているはずだ。しかし前にも言ったように、彼らは確信犯だ。彼らが担ぎ上げる御方が指示するなら、たとえそれが御父様の指示に反することであってもよしとする。御父様は禍根を残されたまま聖和された。御父様がまだ地上におられるのであれば許される道もあったはずが、聖和された以上その道はない。今もし悔い改めたところで、御父様から直接に許しの言葉を戴ける訳ではなく、いつでも帰って来れる道があるだろうとの希望もついに潰えた。成り行き上グループ内に留まらざるを得なかった者達もいただろうが、どんな言い訳をしたとしても、御父様が地上を去られたときにグループに留まっていたというのは、未来永劫彼らの歴史的汚点として刻まれ残るだろう。もはや救いの道がないとなれば彼らは命がけで教会に対して反旗を翻す。本人達は正義感によるものだと信じているが、霊的に見れば追い詰められたサタンの足掻きだ。彼らが良心によるものだ、正義だと信じることが彼らの善悪を決めるのではない。思い込みの背後の霊的部分で既に決められていて、サタンの正体を暴けないまま悪の片棒を担いでいる。彼らは命がけだろうに教会側ののほほんとした茹で蛙状態には溜息がもれる。強いアベルも何も、今はアベルとして戦わざるを得ない状況にある。新年早々過激な物言いになるが、事の重大さを多くの食口はわかっていない。

2013年1月1日火曜日

今日の想い 515

御父様が買われた資産がある。御父様によって育てられた事業がある。それらはサタン圏から復帰された資産であり事業であり、それを足場に更なる復帰を為してこられた。もちろん外的なことを言えば、多くは日本食口の万物復帰によるものだと言えるかもしれないが、お金の流れだけを追ったとしても復帰がどの時点で確定したかはわからない。わからないが御父様の願いに応えようと、汗を流し涙を流し、精誠の投入が秤にかけられながら積み上げられて、結果として復帰された資産を見ているといえる。御父様に捧げた精誠を形として見ている。捧げた精誠は御父様に属するのであり、私は御父様に所属する資産となった精誠を管理している管理者の立場にある。以前、御父様はアメリカの摂理の為にモービルホームを買われたことがある。それは兄弟がそれで街々を移動しながら対象者に原理のビデオを見せて伝道する、移動式ビデオセンターだった。モービルホームで復帰された兄弟がいるのかいないのか、どの程度活動したのかさえ知らないが、私が今の店に移動になったときには既に貸りていた倉庫の駐車スペースに置き去りにされていた。野ざらしにされて使い物にならない車を、毎月の駐車料だけそれぞれの店で払い続けながら、そのままになっていた。経費が嵩んで処分したくても御父様の許可は当然出ない。当時の責任者が御父様にどうかけあったのかはわからないが、結局処分せざるを得なかった。御父様が買い求められたものは復帰された資産だ。復帰された資産を私の手で処分したという事実は私の中でしこりになっている。そのしこりは大きな出来物となって私の腰に存在している。あずかった店は私の管理にあるけれども私の店ではない。この店が御父様の店であり資産であるという重みを覚えて支えない限り、私は管理者としての資格を蔑ろにしたことになる。毎日の営業で、どうお金を受け取りどうお金を使うのか、どんな想いがそこに関与しどんな想いを込めるのか。想いや念としてのお金が、更に精誠とされて天に受け取られる為にはどうすればいいのか。何年経っても何もわかっていない私は、とにかく営業の火を消さないように必死で支えているつもりだけれども、それでも御父様の前で顔を上げて報告できる内容はひとつもない。