2013年2月28日木曜日

今日の想い 537

「私は体をもっている、体が存在している」と認識するのは心だとしたら、「私に心がある、心が存在している」と認識するのは何が認識するのだろうか。心自身だろうか。心自身が心を認識するのであれば「私は在って或る者」という神様と同じ位置に私の心を置いていることになる。現代人はこの心を私自身としているために、心の奥で心を認識すべき霊としての私、自我がわからない。心自身が心を認識しているという限定的認識が、心魂の深みの次元から心を自由に操り弄ぶ霊的存在に心魂を喰いものにされている。私の心を喰いものにするそのサタン的存在の正体を見届けることができないでいる。人間は本来霊的存在であるけれども、心の奥に存在し心を喰い物にしている霊的存在を見届けることができずに、心魂存在に留まろうとしている。心魂と霊を隔ててしまっている次元の蓋(ふた)が開かれれば、自分を心魂存在だと思っていた認識に穴が開いて、入り込んでくる霊を認めざるを得なくなる。そうなれば自分が心魂存在である以上に霊的存在であることを知るようになり、さらに今までは気付かなかった、自分の罪に汚れた霊の在り様に辟易するようになる。全ての人間が救いの必要を実感するのは次元の蓋、次元の堰が決壊し、霊が流れ込んできて霊の洪水が溢れる時だけれども、食口の霊的なものへの間違った認識も早く修正しないと彼らを救いに導くことができなくなるどころか、祝福を戴いて救われたはずなのに何も救われていないと言いながら食口ですら彷徨うことになる。祝福の権能を与えられながらも埃を被った神棚に置き去りにされていてその価値がわからないでいる。救いが何かもわからずにいながら、救いを説いてどうして彼らを伝道することなどできるだろうかとも思うが、救いがよくわからない位置で伝道もどきを一生懸命しながら、本当は霊界がそのもどきを伝道に変えるのであり、そしてもどきを通して実は自分自身をも伝道している。そのように、天の父母様は、御父様は、善霊界は、行動する者、すなわち意志を差出す者に働かれる。それが私の氏族復帰に対する、人類の復帰に対する責任分担だ。

2013年2月26日火曜日

今日の想い 536

一言で人類の救いとはいっても、70億を超える人類のひとりひとりが分かたれた個の心魂存在である以上、全人類の復帰が簡単ではないことはわかりきっている。誰もが罪に悩み、救いの真理を求めて彷徨っている訳ではない。様々な宗教があり、それらの宗教への帰依を通して救われると信じ切っている者達に、あるいは科学万能だけを拠り所とする無神論者達に、見えない心魂の、蓋をしてしまった底に沈殿している正体を気付かせることは至難の業だ。この世界に大きな変動もなく、この地球の地盤に何らの変化も起こらず、相変わらず踏み締めて暮らすことができるのに、その上でも人類全てを復帰できるだろうか。地上天国をソフトランディングでなそうとしても見通しがつかないなら、世界が激しく変動して生活を脅かし、固く動かない地盤が波打って生命を脅かす、そんなカタストロフィーに落とし込んで地上天国、実体的天一国の始動に弾みをつけるハードランディングを天の父母様は選ばないだろうか。私なんぞは早々と見切りをつけて、きっとハードランディングを選択されるはずだと見込んで歩んできた部分も実は否定できない。それに関する御父様の御話には自ずと敏感になり、どうしてもその部分の印象だけが強く残る。日本が太平洋に滑って落ちて藻屑となる、日本が五つに分断される、富士山が流れてしまう、等々、その手の御父様のお話が私の頭にこびり付いて離れない。しかしハードランディングの認識と期待ありきで願いに応える自分にはなれないだろう。私はこの手の距離を置いてみる見物人的未来予想を一端封印する必要がある。基元節は開門されて時の流れは天地開闢に突入した。時の流れの意味が先天時代とは全く異なっている。時の流れに主管され、流されるままの自分では、先天も後天も何ら変わりはない。しかし、時空を超えて主管できる私を決めるのは私自身だ。私が時空を超えた位置で、天地開闢の天宙的運勢圏から運勢を引き込むためにどうするべきか。私はずっと前からわかりすぎるほどわかっているはずだ。愛する。それ以外ない。生命を賭して愛する。真っ直ぐにひたすら愛を投入し続ける。下手な思考も、生ぬるい感情もほったらかして、愛する意志を発熱させ、燃え上がらせ、愛という燃え上がる意志の塊を投げ続ける。

2013年2月25日月曜日

今日の想い 535

同じ人間の姿かたちをしておられたものの、その御方と人類とは全く異なる存在だった。人類はここまで発展成長してきたけれども、罪の血統から出た者には越えることのできない天井があり、さらに発展過程も成長した在り様も神様が願われた本来のものとは全く異質なものだった。私達祝福家庭は人類の血統とは異なる、その御方の罪のない血統に接木されて、自分の根源を産み変えて戴いた。産み変えて戴いたけれども、根源が変わった私であることを認識できず、そのはずだという信仰をもってここまできた。変わった私であることをひたすら信じることで、根源に繋がる心魂の在り様、すなわち神様の心情に繋がる心魂の在り様を育ててきた。その御方、真の御父様は人類とは異なる存在だったけれども、祝福家庭である私達もまた人類とは異なる存在だ。しかし、かと言って真の御父様と全く同じ存在だとも明言できずに、私達は真の御父様と人類の間で揺れ動き、戦っている。そう、私達は揺れ動いているし、戦っている。その表現がもっとも的を得ている私達の在り様だろう。この揺れ動き戦っている私と言う心魂の戦場で、真の御父様が勝利宣布されたと同じ勝利内容を取り込んで戦いを終結させるためには、私は私自身を捨てる必要があるだろう。私への執着を先ず捨て、執着によって物事に対するのではなく、み旨を為すことの為に全ての物事に対する。執着で食べていたものをみ旨の願いとして食べ、執着で取り込んでいたものをみ旨の願いとして取り込む。味わう感情を私的に味わうのではなく、味わうべくして味わう公的な私として味わう。思考にも感情にも執着による意志ではなく、み旨を為す為の意志からくる思考とし感情とする。宗教は条件的私を供える為の私にはめる枷だということができる。もし私がみ旨への意志で、思考も、感情も貫くことができるなら、枷の為の宗教は私には必要がない。

2013年2月24日日曜日

清平批判?

他の誰でもない。信仰は私が立てる。そして実体も私が立てる。私は私を救うメシヤをその上に立てる。分解しそうな家庭であっても、家庭の中心は私が立てる。そして祝福家庭としての実体も私が立てる。散り散りバラバラな氏族圏であっても、氏族の中心は私が立てる。そして氏族メシヤとして氏族復帰の実体も私が立てる。その為に私は貪欲になる。貪欲になって全てを手に入れる。全てを手に入れれば、生きる為には全てを持っている私に誰もがすり寄ってくるだろう。彼らを復帰しようとすれば、生きることの執着を手玉に取って復帰する以外ない。天の威厳を見せつける。口の重い私が、何も持っていない私が、どうなるか思い知るべきだ。ヤコブがエソウを屈服させ復帰させた同じ方法を取る。清平を批難する者がいる。金と権力を私的に使っていると口角泡を飛ばす。しかし批判する彼らは金と権力には無縁な者達だ。金と権力が無ければ家庭も氏族も見向きもしないと思っている私にすれば、批判する彼らはどうやって氏族復帰を為そうとしているのだろうかと思う。まさか親族一軒一軒尋ねて、み言葉を吟じ、托鉢すれば氏族は復帰されると思っている訳ではないだろう。霊界の先祖がお化けにでもなって説得してくれる訳でもないだろう。ではどうするのか。彼らは、というか食口の殆どは氏族復帰の意志を持ってはいない。それか霊界に意味もない期待をかける他人任せでいる。私は敢えてはっきり言う。私は清平を、清平をして金と権力を手中にした訓母様をあっぱれだと思う。まさしく霊界を主管して手中にしたものであり、食口の一部は批難しようとも霊界は訓母様に何の咎めることもしないはずだ。御父様の願いに応え、氏族復帰に責任を持つ行動に拍手喝さいだ。先祖解怨、先祖祝福の為に、清平には少なからず献金してきたが、それを使って戴くことで是非とも訓母様の御霊光に与りたい。たとえ幾分か私的に使ったとしても、清平の施設とワールドセンターに注ぎ込んだ量に比べれば、それは必要経費の範疇だろう。私のように小さなOには一つのXが入れるかどうかだが、訓母様のように大きな大きなOには多くのXを許容できる。

今日の想い 534

霧雨の朝だ。アパートの裏戸を開いて外気に割り込むと、霧雨が顔を撫で、カバンを持つ手を優しく撫でていく。地面は沁みて柔らかく、骨々しい木々も潤いを含んでいる。もうすでに春の使者がやってきて冬と交渉を始めている。交渉次第では随分と早くに冬は春に席を譲るだろう。この地方に取って、この冬は今までになく力なかった。例年はかなりの積雪が時折あって、身動き取れずに、家の中に蹲って何度か過ごしたものだ。しかし今回はちらつくばかりで、一、二度地面を白くは覆ったものの、昼の日差しに縮んで消えた。冬とは言えない冬だった。御父様が秋口に聖和されて、実りの季節に聖和式が行われ、そして春への交代を前に基元節である天一国元年が宣布された。実体的な天一国の出発だ。私が何を感じ何を思おうとも、この事実は明白で否定のしようがない。何らかの、目に見える外的変化を期待していた私だった。それ故に家族にも内的変化を期待していた。しかしその現実はというと、会場のスクリーンに映しだされた映像を見ながら、この重要な時でさえも、隣の妻の疲れ果てた姿に溜息が洩れ、無理に連れて行った娘の態度に辟易している私がいた。私の家庭だけが取り残され、基元節を越えて皆と同じに光の中へは入って行けないように思えて、ただただ焦っていた。せめてもの期待も裏切られる現実が、私の基元節だった。ものの見事に突き放された。そして私はずっと放心状態で、泣き喚きたくても涙も出ず、整理して再出発しなければならないのに内面を閉ざしたままの時間だけが流れている。以前と同じ生活だけがそのまま続いていることが恨めしい。木々はこの朝の霧雨に濡れ、湿りが潤いを含ませようとも、それでも頑なに骨々しいままの状態を変えはしない。しかし木々本人は知らずとも、ほんの数週間先には芽吹き始め緑を装い始める。私は私自身にもう少し待てと釘を刺す。焦って闇雲に内面を混乱させないよう落ち着かせる。そして御父様への祈りもまた同じだ。もう少し待って下さい、、。ただそれだけを唱えている。今それだけを繰り返している。骨々しくて寒々しい、何も見えなくて虚しい、そんな今の状態であっても、芽吹き始めるその瞬間は絶対に見逃さない。

2013年2月20日水曜日

今日の想い 533

いよいよ基元節を迎える。目は開いていながらも見ることができず、耳も通じているはずなのに聞くこともできず、何処にいて何が起こっているのか、訳のわからないままひたすら御父様の袖を掴んでここまできた。そして御父様は呆気なく聖和されて、掴んでいた袖は急に消え失せた。呆気なくというのは不遜な言い方かも知れないが、御父様にしがみ付くしかないこの身にすればそんな感じだ。途方に暮れて当然だけれども、四方を見渡すと、今、目の前に基元節という門が見えている。支えの袖は霧散してしまったが、その代わりに内的目は基元節の門をとらえている。その門をくぐる為に聖酒を戴き、身も心も洗い清め、食口誰もがまだ見ぬ扉の向こうへと待ち構えている。誰もが開門の号令が鳴り響くのを今か今かと待ち焦がれ聞き耳を立てながら、門が大きく開くと同時に、我先に新しい時空に飛び込んでいくのだろう。新しい時空は、天の父母完全主管の世界だ。新しい世界に入ることで、私達は御父様の勝利圏が時空を越えた天宙的なものであることを実感し思い知るだろう。霊の次元へ意識を泳がせれば、それぞれの心情の啓発度に応じた霊界が見えてくる。機械的な無機質の世界から、あらゆる被造物存在が声を発し、それぞれの存在が霊のひとつの現れとして人間に訴えかける、そんな霊の活動舞台としての世界が現れる。そうなれば私がどういう存在であるかを周囲の環境によって問われることになる。明らかに存在によって裁かれ、存在によって讒訴される。口にする食物が、私が利己的であれば口にしてくれるなと訴え、敢えて口にすれば毒になって讒訴する。逆に私が利他的でありみ旨への意志を差し出していれば、口にして欲しいと頼み込み、私の肉の一部となって健康と力をもたらす。そのように、私が囲い込み、主管しようとする全ての万物が声を発するのを聞くだろう。何もわからないまま歩んできた私達は、今、御父様の心情を備えた、すなわち御父様の分霊を戴いている神霊働く存在として、未だサタン的存在の手に残されたままの人類、その救援活動を基元節を越えたその新しい世界で期待されている。

2013年2月19日火曜日

今日の想い 532

久方ぶりに教会へ行った。売上の為に日曜の昼もオープンしてから、しばらく日曜礼拝には行けずにいる。私に取ってはこの店こそが教会だと思っているから、サンデークリスチャンならぬサンデー食口ですらないことにもたいして負債はない。日曜礼拝に行くことだけで満足してしまっている食口は、敢えて距離を置くことを考えてもいいかも知れない。ひと昔前、環故郷といわれてアメリカにいた日本食口にも帰国の号令がかかり、ビザのない者からどんどん帰国していったが、そのうちの何人が氏族復帰への道を築いただろう。しかし実際はこう問わなければならない。帰国した食口の何人が信仰を保ち教会に繋がっているだろうかと、、。もし私もあの時環故郷していたら、根のはりの浅い私の信仰など、押し寄せる非原理世界の前に音もなく砕け散っていたに違いない。そうなると信仰があったから残っているのではなくて、荒波にさらわれないように安全圏でじっとしていたから残っているだけの話だ。先ずこの自覚を備えて、離れて行った食口に対する蔑みと己の奢りを悔い改めなければならない。意外と離れたはずだと思っていた食口が、教会的な方法とは別の、予想だにしなかった切り口で、摂理への新たな貢献をするかも知れない。天の父母様から見れば地上の国境の壁など存在しないように、離れた食口も居残っている食口も同じ食口だろうし、さらに聖酒を戴いて祝福を受ければ過去の遍歴をとやかく言える者は誰もいない。意外と距離を置いていた食口の方が、過去の罪の自覚が明確で、悔い改めは罪の自覚が深いほどに赦しに対する感謝もひとしおであり、そうなれば御父様の願いに応えたいという想いも勿論強く働くはずだ。御父様を中心とする今までの歩みは、勝利の為の布石を出来得る限り打ち続ける歩みであったけれども、これからの御母様を中心とする歩みは打たれた布石をして結果を出す歩みだろう。七年路程は伝道であり、氏族復帰であり、祖国創建だ。だから目的認識に於いては一貫しており、今までのように新たな摂理の願いが飛び出して翻弄されることなないと思っている。今までは教会は上を下への大騒ぎだったけれども、社会と世界は意外と落ち着いていて、表面的に見れば一人相撲のような格好になっていた。しかしこれからは家庭連合の方が一貫し、逆に社会と世界は天と地が逆さになったような大騒ぎになっていくだろう。そうなるとサンデー食口のままでありながら、さも自分は信仰を保っていると誤解したまま安堵している者達に比べ、世間の荒波を真正面から受けて、自分の信仰の弱さを味わいつくした食口の方が、信仰の根をしっかりはろうという根深い決意と覚悟を差し出すだろう。

2013年2月16日土曜日

今日の想い 531

御父様は戒律を守ったり、イエス様の教えを守ることに汲々として歩まれた訳ではない。天の父母様の涙を晴らし、願いに応えたいとひたすら決意と覚悟で意志されながら歩まれた。それでは私達はどうだろうか。み言葉の教えを守ることに忠実であろうとするのはもちろん大切だ。けれどもそれは御父様を悲しませたくないという動機からなのか、それとも教えを守らなければ裁かれるという恐れが動機としてあるのかどちらだろう。私達は本当に、100%御父様を悲しませたくないという想いから教えに忠実であろうとするのだろうか。品行方正ではあったが御父様を認めず生きた者と、自堕落でありながらも御父様を受け入れて生きた者とではどちらが天国により近いと言えるだろうか。食口であれば後者を選ぶはずだと思うのだがどうだろう。公金問題もアダムエバ問題も犯さなかったし、そして酒もタバコも勿論やってはいないが、結局何もしなかった者と、いろんな噂もされ実際問題も発覚しながら、しかし御父様の願われる結果は残した者とはどちらを御父様は喜ばれるだろうか。私達は絵に描いたような信仰者像を思い描き、その像を自分にも当て嵌めようとしているけれども、御父様の私達に願われる姿勢はそれとは異質なものではないかと問うてみなければならない。教えを守ることに汲々とするより御父様の願いに応えたい私になるべきだし、願われる実績を供える為に、如何にみ旨への熱を、そして期待に応えたいという衝動を持つかということだろう。私の中に、御父様をかき抱いて嗚咽し、止むに止まれぬみ旨への熱い想いがいくらでも湧きおこり燃え上がる、そんな私でなければ私の人生は御父様と共にあり、御父様の願いに応えた歩みだとは言えないだろう。この意味もない落ち着き、心に波風を立てたくないからという無関心、そして教えを守ることだけに汲々とする委縮、その在り様こそが己がサタン的存在であることの証明だ。

2013年2月15日金曜日

概念の次元から霊の次元へ

見たり聞いたり触れたりしながら、感覚を通して受け取るものから事物や事柄を表象し、その表象を様々に関与させながら概念を作り上げる。人間は表象と概念の世界に生きる生きものだ。しかしその表象と概念の世界に留まるのではなく、表象と概念を身体的なものにしていて、その主体としての心的存在の霊がいて、その霊の世界にアンテナを喰い込ませて生きる存在にならなければ、唯物的人間でしかなく、霊性を備えた人間とは言えない。私達はいろんな人と接しながら、見えない人となりや性格、そして心の在り様と相対している。そのように、見えない表象や概念であるけれどもそれらと関与しながら、表象と概念の世界の更に奥にある霊の在り様と相対しなければならない。人の心の在り様の更に奥にある霊の在り様を見届ける者にならなければ、私達がどれほど霊界を信じ霊界の在り様をみ言葉や人の話から考察するとしても、所詮概念世界の大気圏は越えられない。食口に対して唯物主義者だと言えば怒るだろうけれども、私達が霊性を備え霊的世界に関与できる意志を持たない限り、唯物主義者とさして変わりはない。天の父母様を語り、霊界を語る唯物主義者だ。教条主義に陥ってしまえば特にそう言わざるを得ない。私達の中に、これはしてはいけないあれはやってはいけない、タバコはだめだ酒もだめだポルノもだめだ、等の規律が備わっていてそれに従うことが信仰であり御父様の願いだと思い込んでいる。そんな原理的戒律を自分にも当て嵌めると同時に周囲にも当て嵌めて、我知らず断罪している。子女様に対する断罪となると更に度を増す。規律は規律で大切で重要な役割があり、それを捨てろとは言えないが、規律に雁字搦めで歩むのは教条主義者だ。規律は規律という概念であって、概念がうごめく背後にある霊的なものを見る必要がある。規律をもって断罪するけれども規律をもって正しい食口と判断もする。断罪する場合の規律の背後にある霊と、正しい食口だと認める場合に宛がう規律の背後にある霊を、どちらも同じ存在だと思わない方がいい。明らかに異なる霊が関わっている。その場合断罪するのが悪霊で正しいと認めるのが善霊だとは勿論言えない。当然その逆もあり得る。多くの食口は未だに表象と概念の世界に留まったままでいて霊性が開発されていない。み言葉を規律や戒律の次元、即ち概念の世界のみ言葉としてしか受け取れない。霊性は特質ではなくて、歩みの中で御父様とひとつになろうとしながら受け取る心情だ。心情を受け取れば受け取るほど霊性は備わってくる。心情は表象や概念の世界をロケット噴射的に貫通して一気に私を霊界へもたらす。

2013年2月13日水曜日

今日の想い 530

私はどのようにすればマッサラな状態を整えて基元節を迎えることができるだろうか。未だに渦巻いてもいて、くすぶってもいる氏族復帰や伝道というみ旨に対するわだかまりを全部払拭し、その代わりに復帰された当初のように真理と神霊が働く私を備えて出発することができるか。この私の内的在り様が全てを決定する。私にわだかまりがあれば、氏族圏も環境圏もそのような在り様になるだろう。私に信仰が太く強固に立っていれば、やはり氏族圏も環境圏もそれに応対する在り様になるだろう。私が主体であり、私が氏族メシヤだからだ。メシヤという称号が飾りとして伊達に与えてられている訳ではない。御父様が私達に下賜(かし)されたのであれば、人類のメシヤとして歩み勝利された御父様の勝利圏をそのまま相続させて戴いたということだ。しかしその勝利圏は座ってじっとしていて影響を受けるものではない。しかし以前のように訳もわからずわだかまりを抱えたまま、それでも活動すれば勝利圏の影響を受けるというものでもない。御母様が話されるように、私達は環境要件を備える必要がある。それは内的環境であり、内的環境によって備えられる外的環境だ。私達は、今までの歩みを通して、堕落的なものを入り込ませて、み旨に向かわせる意志を挫かせた負の内的要件が積もっている。それを如何に払拭し、願いに応えたい衝動を、復帰への執念を、意気揚々たる活動への気分を、内的環境要件として備えるかということだろう。空元気ならぬ空自信にならないように、責任に押しつぶされるのも問題だが責任の重みを受け止めている自覚がないのもまた問題だ。堕落が起こる前、アダムとエバは無邪気で何の責任感情も持たなかったのだろうか。それとも責任分担を担っている自覚もあり、それに伴う責任感情もありながら、それでも責任を果たせずに堕落していったのだろうか。それは丁度、私に与えられている責任分担、氏族メシヤとしての責任分担があり責任感情もありながら、如何ともしがたい動けない私がいると、摂理の願いに応えられない自分のままでいてしまうのと同じことだろうか。おそらくアダムエバが堕落していった流れと、私が御父母様の願いに対して難しくてできないという流れは同じだろう。私は生活して生きるひとりの人間であるまえに氏族メシヤだと認識し、それは人間の宿命を超える宿命的なものだと理解し、その責任感情を背負い続ける者でなければ願いに応える者にはなれないだろう。

2013年2月10日日曜日

今日の想い 529

論理思考の強い者は、すべての事柄を霊視、すなわち内的な心の目で見ることを訓練しなければならない。霊的なことが分からないから聖酒を戴く本当の意味も、再祝福に与る本当の意味もわからず、戴いて喜べるような状況にないと、さも謙虚な態度でもあるかのように嘯(うそぶ)いている。霊的に見るということに対して内的な訓練の仕方がわからない者が多い。どうしても外的なものを追いかけてしまって、この感覚世界を見ると同じように、幽霊でも見るかのように訓練してみても何の意味もない。霊的な目が用意される方法は、祈りで力を受け取るのと全く同じ方法だ。深く祈ることで無意識のうちに霊的な目という器官も創造していると言える。人間には記憶という内的機能がある。記憶の引き出しから過去の情景やその時に味わった感情を取り出すことで、過去に私が生きていたことを認識している。しかし或る事柄に関して、感覚で受け取ったものとその記憶とは随分異なることを理解しているだろうか。実は記憶は常に変化している。感覚で受け取るものは一瞬一瞬のコマ送りだけれども、記憶は心魂が見るものだから思考や感情の内的変化と共にその姿を変えていく。思考や感情が生きているように記憶も生きている。自分が犯した罪として認識している或る事柄は、時の流れの中で風化してほしいとは思っても、実際は蕩減法に則って寸分の狂いもなく清算させられる。記憶は生きているからだ。そして風化させようとすればするほど増償法が働く。罪を亡きものとしてそれに対する思考や感情を宛がうまいとすれば、生きている記憶が反乱を起こす。反乱は心の痛み、負債として心魂を病ませる。生きることに人体の細胞数を超える霊が関与しながら生命活動を維持しているし、罪を犯すに際しても関与する全ての霊を総動員している。更に思考する、感情するという心魂活動にも多大な霊が関与している。良くも悪くも私という存在は億兆の霊を率いて指揮命令を出している中心存在だ。霊的影響は私の罪の記憶だけに留まらず、血統にまたがっての無意識圏の記憶もそうであり、始祖の原罪から始まるありとあらゆる罪の記憶が生きて反乱を起こそうとする。サタン主権のこの世はその反乱をねじ伏せていて、個人の平安、世界の平和を繕っているが、天の父母に主権転換されての後天開闢時代はもはやその押さえは効かない。私の罪の記憶の反乱、血統の罪の記憶の反乱、関与する全ての霊の反乱が心魂に押し寄せる。御父母様の犠牲と勝利を引き換えに、聖酒を戴ける大救済、再祝福に与る大恩恵がどれほど感謝であるか。それを戴く状況にないからと否定する者に対しては、御父母様も哀れに思う心情を越えてしまわれ言葉もないだろう。記憶の反乱、霊の大反乱は確実に押し寄せる。それがD-DAYの意味だ。

2013年2月9日土曜日

今日の想い 528

一方で真紅のバラのみ旨への情熱を持ち、その一方で真白なユリの高潔を持つ。兄弟と言いながら、実のところ自分のノルマ、実績を出すことに汲々とし、他の食口に対しては随分冷たい部分もあったはずだ。情熱はあったのかも知れないが高潔さが備わっていただろうか。投入して投入して、さらに投入して、摂理はその期間を終える度に、次なる摂理が間髪を入れず言い渡されてきた。実質半永久的に摂理の要求に縛られながら投入し続けてきた。その間、多くの離れた食口もいただろう。それでも雑巾を絞り続けるように、離れた食口の分も残った食口が背負って投入しながら、ひたすら全体勝利を目指してきた。日本の食口の歩みは、未来に希望を託さず、先のことを考える未来への目を敢えて潰してしまって、明日の自分を否定し、その日の願いだけを抱えて歩んできた道だ。だからこそ御父様の相対に立てる条件が整った。潰した未来への目、希望への目を誰が代わりに備えてくれるだろうか。苦労して苦労して潰してしまった目で、手探りしながら歩んでいる老いた母に、どうして養生しなかったのかと言えるだろうか。御母様が御父様に対して絶対服従であられたように、母の国日本に対しても御父様は絶対服従を要求されてこられた。その要求に一言の言い返すこともなく受け入れてきたのが日本の食口だ。その凄まじさは他の全ての国の摂理を合わせもっても比較にならない。私は御母様の前に負債があるように、母の国として歩んできた日本の食口の前にも多大な負債がある。日本の食口の前では頭が上がらない。何とかして未来への目、希望の目を備えてあげたい。もちろん御母様が言われるように、氏族復帰、伝道は最重要課題ではあるけれども、かといって己の氏族、自分の伝道のことだけに意識を集中させて、他の食口がどうなりどうしようともかかわりなし、とはこれからは言えないだろう。勝利のパターンをそれぞれが相続しながら、それぞれで勝利へ向かうことも大切だけれども、今こそ食口同士の横の関係を強固なものにしながら、お互いがお互いを支え合いながら全体勝利をもたらすことができるようにすべきだ。氏族復帰実績、伝道実績、献金実績。実績追及はみ旨への情熱という意味ですばらしいし、今まではノルマ追求、実績追及でケツを叩き合って来たけれど、これからの願いに対してはそれだけでは無理な部分がある。それ以上に助け合い精神、為に生きる精神と言う意味で真白なユリの高潔な精神を備えるべきだ。

2013年2月5日火曜日

今日の想い 527

人は、安らぎの中に落ち着いてしまうと精神的存在ではなくなる。精進は精神に通じており、私の中に前に進み、高みに昇ろうとする意志がなければ、私は只の飯を喰らって糞をする存在でしかない。それは精神的存在とは言わない。その意志をどうやって備えるかというと、私の心を打ちのめし、痛めつけ、引き裂く事柄の存在によって意志を備えることができる。誰も自分がかわいい。自分を痛めつけたくはない。体の犠牲や奉仕は厭わない者であっても、心の犠牲を供えるとなると誰もが踏みとどまる。心の犠牲は愛する者からの仕打ちであり、裏切りであり、或いは私が愛する者から引き裂かれることでもある。こういった心の犠牲を強いられ、それを敢えて飲み込み、そうしてこそ意志が私の中で芽を出してくる。欲望からの意志は人間的ではあっても精神的ではない。しかし痛みに裏付けられた意志は私という人間を精神的存在への流れに誘う力を持っている。要するに神霊がそこには深くかかわっている。御父様が私達を押し出してきたのは、心の犠牲を供える立場だ。常にその犠牲の場へと私達を押し出してこられた。心の犠牲こそが精誠だ。心の痛みを覚えて、涙を流して、そうして真の愛は流れて来る。どれだけ訓読しても、安らぎの中に落ち着いていては真の愛は流れてはこない。家庭を持つということは安らぎの時間と空間を持つことだ、という認識がある。世間だけでなく食口でもそうだろう。積水ハウスのCMに流れる、あの映像と歌が家庭の安らぎだ。以前はあのCMを見て心躍らせた。しかし今それを見ると心を締め付けられ涙が流れる。それは感動の涙ではなく、余りにも現実は異なるという悲嘆に引き下ろされて流れる涙だ。しかし悲嘆に引き下ろされた位置で何とか安らぎを取り戻そうと足掻くのではなく、それはそれで飲み込みながら、その痛みに裏付けされた意志、足掻きではなく意志を、報いを期待しない新たな意志を吐き出す私になることだ。感情を飲み込んで意志を吐き出す。いつどうなるとも知れない病持ちの妻を抱え、アメリカの自己中心的価値観に毒された子供を抱え、いつ足腰を砕かれるかも知れない店を抱え、グループ問題の煽りを受けて告訴までされ、ついには暫く守られていた体調も急に悪化し始めた。それでも、飲み込むものは全て飲み込んで、一生懸命消化しながら、愚痴をCO2に乗せて吐き出すのではなく意志を吐き出す。それでこそ私は糞をするだけの存在ではなくて精神存在だ。

サタン的存在

かつては神側とサタン側、どちらにも中心的な存在がいて、ひとつに括られていてわかりやすかった。やくざ組織のようにサタンを親分とする系列があって、親分の指示のもとに動じ静じていて、親分ルーシェルに交渉し親分の意を得ることでサタン側全体が納得した。兄弟も教会に対していろいろ思うことはあっても、神側サタン側という両極がはっきりしており、神側でなければサタン側だという認識があったので敢えて教会に対して楯つくようなことはなかった。しかしルーシェルが神様の前に悔い改めてサタンの座を降りることで、サタン側は中心的存在を失ってしまい、四分五裂に分散してしまった。その為、今は相反する両極という構造は当て嵌まらない。かつてのルーシェルの重臣達や頭角を現す者達がそれぞれに、神様とひとつになっておられる御父母様に対して反旗を立てている。自分は御父様に従い願いに応えていると言いながら、自己中心的思い込みに毒されて、その実、御母様にも教会にも反旗を立てている者達がいるが、彼らは四分五裂したサタン側の或る存在の主管のもとにある。神様から遠ざかった堕落人間が、その心魂に堕落的影響を受けたが、大きくはルーシェルからだがルーシェルの次に影響を受けたのが後に頭角を現すアーリマンという霊的存在からだ。アーリマンは唯物論の悪魔で、人類を共産主義へ導いたのはこの霊的存在だ。御父様が、共産主義の手からワシントンタイムズを取り戻したと、大会(ニューヨーク)ではっきりと言われたように、彼らは唯物論の悪魔アーリマンに主管されている。サタン的存在は人間それぞれの特質や実力を見抜いていて、その特質や力を発揮させたい人間の衝動を擽(くすぐ)りながら近付いてくる。人間的で人に優しい者には、その優しさを使えますよと誘惑してくるサタン的存在が待ち受けている。特に問題になっているグループの彼らには、その知恵と論理性の実力を褒めて用いるアーリマンがいて、彼らの満足心を満たしている。カリスマ性のある者はそのカリスマ性をして、社会公徳心の強い者はその道徳性をして、それを用いようとするサタン的存在が近付いてくる。私がサタン的存在の片棒を担いだり、その餌食になったりするのを避けようとすれば、もっとも基本である謙虚と感謝を忘れてはならない。思考としての判断であれ、感情としての判断であれ、その判断に至らせた思考や感情は一体どこから来たのかを先ず問うべきだ。謙虚に背後の霊的なものを見ようと努めるのでなければ、サタンが関与する自己中心的思い込みで思考し感情してしまう。神霊、聖霊といった霊的なものは謙虚に尋ねることで届くのであって、これが天の願いだと自分で判断するのとは次元が異なる。肉体をもって地上に歩まれた御父様を私達は知っているので、特に霊的背後を突き詰めなくとも、御父様の願いに応えたいという真実の想いがあれば、謙虚と感謝を意識するまでもなくその道から外れることはないはずだ。