2014年2月25日火曜日

今日の想い 705

愛は犠牲的であってこそ真の愛と言うことができるのだろう。真の愛という響きは暖かく、心地よさを覚えるけれども、犠牲的となると過酷であり残酷であり、冷たく孤独な響きがする。愛を与える側が犠牲的であれば、その愛を受け取る側は無条件に屈服せざるを得ない。御父様がそんな真の愛で私達に対して下さったから、受け取った私達は無条件に御父様に侍っていく。無条件に御父様に侍っていこうとするけれども、悲しいかな犠牲的だと言える愛がない。いまだ堕落性を脱げ切れないからだ。受けることにだけ慣れて、与える立場になるという成長を私達の中にどれだけ見ることができるだろうか。打たれ強くなった私達だとは言えるかもしれないが、その位置を越えて、与えることができる、すなわち自らを犠牲にして与える愛を発動できる私達には成長していない。実体的天一国を創建するには何が必要だろうか。知恵だろうか。力だろうか。実力として知恵も力も必要だろうが、地上天国としての天一国は二人が一つになる国であり、それは知恵で一つになるのでもなく力で一つになるのでもない。愛で一つになるからこそ地上天国であり天一国だ。結局は私達が愛の完成者となるべく、与える愛、犠牲的愛を発動できる存在にならなければ、天一国のブループリントはブループリントのままで実体を見ることは無い。身の置き所、安心の場を備えて置いて、与えましょう、愛しましょうと言うのであれば、そこには犠牲的と思えるものは既に排除されている。私達は多くの問題を抱えている。祝福を戴いたのに、理想家庭を標榜してきたのに、やはりこの世の悩みと同じ種類の悩みを抱え、すなわち生きるために悩んで、生きてどうするかを悩んではいない。つくづく自分に嫌気がさすけれども、御父様の心情圏に昇っていけない私を、捨てて見放すことはされない。復帰歴史に見る神様の復帰の執念は、私の復帰に対しても見ることができる。この天と地の狭間で浮き沈みする状態から、私を一刀両断に分別して、生への執着をかなぐり捨て犠牲的な供えを残すならば、私は一気に天高き心情圏に昇りつめる龍になる。あの御父様の揮毫の筆遣いに見る泳ぐ龍の如く、悠然と天に昇っていく龍になる。

2014年2月21日金曜日

今日の想い 704

今日は宣告日。死刑宣告日。生きた屍になる日。自分のものだったと思っていたもの、既に与えられたと思っていたもの、与えられて私との一体圏の中で、もはや切り取って奪われてしまうと存在が否定されるもの、奪われれば理想も希望も喜びも幸せも全て取り上げられてしまうもの、それでも取り去られることを宣告される日。結局、私だという意識だけが残り、そのほかの全てのものはあるべき位置に返しなさいと命令される。叫んでも泣き喚いても、奪い去られるものは奪い去られる。でもせめて、悲嘆に暮れることは赦してもらえないだろうか。せめて悲嘆できる期間は与えて欲しい。結局暫く夢の中にまどろんでいただけで、元の何もない私に返っただけだと、そう納得できる期間を与えて欲しい。やはり現実は残酷だ。み言葉を知った今も知らない過去も、そして恐らく未来も、現実は、この今生が初めてだろう私という魂に取っては、本当に地上に生まれるべきだったのかと思えるほど残酷だ。翻弄されいたぶられ、満身創痍の魂を抱えてどうこれから現実に向かい会っていったらいいのだろうか。生きた屍状態であってもみ旨に貢献できるのだろうか。これでやっと春が来る、我が家庭にも久方振りの春が来ると思っていた。束の間だった。宣告日を告げられて、ますます厳しい冬に逆戻りだ。現実逃避なのか昨日からただ眠くて眠くて仕方がない。悲嘆にくれてはまどろみ、また現実に引き戻されて悲嘆にくれてはまたまどろむ。既に心魂の機能は停止するかしないかのところまできていて、何のやる気も起こらず、何の思考も投げ出している。でも感情だけは息衝いているようで、突然泣いてみたり突然怒りを発散する。しかしそれがどういう意味があってそうなるのかはどうでもいいと思っている。自害するのはおそらくこんな状態で起こるのだろうなくらいは思っているが、宣告を前にして思考も意志も働かない。今まで何度も何度も崩れ落ちる経験はしたけれども、崩れ落ちる土台まで崩れ去ることはなかった。内面に立ててその都度堅固にしてきたはずの霊的柱が霞んでいるのを見ると、崩れ落ちる土台も危うい。それでもせめて背筋だけはしっかり立てて宣告を受け、全ての力を集結させてそれを噛みしめ、そしてゆっくりと呑み込むべきだろう。

2014年2月20日木曜日

今日の想い 703

御父様に代わって残された地上のみ旨を果たす。そう決意と覚悟を差出す私達でなければならないのに、御聖和された事実があるにも拘わらず相も変わらず何か貰える物は無いか、あれが欲しいこれが欲しいと文字通り既に無い袖を引っ張り続ける。死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ。生きる為に、生活の為に躍起になりながら、そのくせ生きてどうするかが定まっていない。ただ生きること、ただ生活することの為に気を使うのであれば、それは為に生きる精神とはとても言えないだろう。生活することに汲々とし時間の流れの両端に高い塀(へい)を囲んで時間移動だけするという、謂わば川をめがけて突進する豚の群れの一匹の如く、周囲の流れに乗るだけで死に向かっている。なかなか思うようにはならないと、体の不安材料や生活の不安材料ばかりに気を取られているうちに、御父母様を迎える家のはずの私の心は閉ざされ荒(すさ)んでいく。そうなると私の心には、ひたすら存在を否定されたくないと内向きになる自己中心的な魔物が居座るようになる。妻が医療本や健康本を読み漁り、生きることだけに意識を投入するように、私は店の安定だけを視野に置いて意識をそこに投入し続ける。当の本人は自分の状況が見えなくても視点を少しでもずらせば、それがみ旨とずれていることは容易に理解できるのに、居座る魔物が本人の霊的な目を覆って惑わせている。いくら信仰があると自認するにしても、心が肉心に占領されればみ言葉の鞘だけが枯葉のように舞うだけで、鞘の中の本質は心魂の外に追い遣っている。そんな状態で、自分は正しい位置にあるし間違ってはいないという思い込みの迷路に迷い込んだ者は、その歪な信仰観の中に住んだまま宇宙の端に追い遣られてしまう。真の父母という言葉の鞘が問題ではなく、真の父母という核に如何に近付いて行くかが問題だ。死生決断という言葉、死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬという神様王権即位式で強調された言葉。私は死する決意と覚悟なしには一歩だに前進はできない。今日をどれだけ潔く死ぬか。潔く死んで綺麗な祭物になるか。時間の流れに乗ることだけで前進しているような、そんな錯覚からいつ目を覚まそうとするのだろうか。御父様もみ旨も信仰もみんな錯覚の中のことで、御父様に本当は会っていない、み旨に本当は歩んでいない、絶対信仰の領域どころか信仰すらも怪しい、ということになりかねない。

2014年2月19日水曜日

天国は二人の国

天国は二人の国、という説明は実に明快な表現だ。み言葉を知らない者にとっては呆気に取られる説明なのだろうが、原理を学びみ旨を歩む者からすればその説明を咀嚼すればするほど、一方では仲良く幸せな夫婦で暮らす国だけれども、一方では夫婦が一つになる為に不断なる努力と犠牲が必要な国だという、理想的感情と犠牲的感情の両方を味わうことができる表現だ。もちろんこの二人が夫婦という関係性だけではなく、父子関係であり兄弟関係でありという二人のことも含まれての二人なのだが、地上天国の生活圏に最も近いのはやはり夫婦関係がどうあるかだろう。天上天国の在り様を言うなら、父子関係で上下、夫婦関係で右左、兄弟関係で前後が、愛を呼吸し愛で空間が形成される霊的空間としての広がりを決定するのだが、それでも愛の存在実体から愛の立体空間、さらに愛の色彩や音色、愛の表現等を創造していくのは夫婦一体理想が中心的核になると思う。天国はそれぞれの夫婦によって異なる天国世界が現れる。個人が個性真理体としてどれ一つとして同じ存在がないように、それぞれの夫婦が住まう天国世界も全て様相が異なっていて、御父母様は祝福家庭それぞれの天国世界を回られ訪問されながら喜び楽しまれるはずだ。未だ地上天国は為されずと思っているのかも知れないが、御父様は地上天国を経験されることなく天上に上られたのだろうか。地上で天国生活を為して天上でも天国に住まうというみ言葉が正しいなら、御父様は既に地上に天国を築かれ天国生活をされて後、天上で天国を築かれ天上天国を開いておられるはずだ。私達の天国という観念はみ言葉から見出される天国観念なのか、それともみ言葉と関係なくみ言葉を受け入れる以前から持っている観念なのか、そのどちらだろうか。「平和の主人血統の主人」の復帰した天国からわかるように、家庭を持たれた御父母様は既に天国の最小単位を築かれたはずで、御父母様が幸せに暮らされればそこは新しいエデンの園だ。私達が夫婦一体圏を為せば天国の基であり、見たり聞いたりする外界に天国を見つけようとしても所詮外界のことであり、それはみ言葉を受け入れる前の天国観念から離れていない。天国はこの夫婦一体圏の中にこそ探すべきだ。

2014年2月17日月曜日

御成婚式を考える

御父母様の三回にわたる結婚式の意味を理解しているだろうか。蘇生、長成、完成の三段階に於ける結婚式があり、その恩恵の基に祝福式をして戴いた。結婚式は家庭を持つ為の儀式だから一度きりだという観念が私達の中にはある。ルーシェルとエバの霊的堕落があり、アダムとエバの肉的堕落があったと言うのであれば、肉的なものを復帰する結婚式と霊的なものを復帰する結婚式があると言うのならまだ理解もできるが、二度ならずも蘇生、長成、完成の三段階、三回に於ける結婚式が為されたのであり、それは一体何を意味するのだろうか。何度も言われたことは、私達が受けた結婚祝福は仮祝福で、ほんとうの祝福は御父母様が完成段階の結婚式が為されて、それに同参して受ける祝福こそ本祝福だというものだ。しかし堕落人類に与える祝福結婚ではなく、御父母様の結婚式は堕落と関係のない、すなわち復帰の為ではない結婚式であり、この複数の結婚式と相まって夜の神様、昼の神様、真の父母様という位相を立てておられる。私達にとっては仮祝福の方が祝福を受けたという印象が強く、本祝福は頷く程度に素通りしてしまったかのようだが、感覚世界で感覚感性によって受け取るものがより実感的で、霊界の事実より地上の現実の方に意識が向かうのは当然だろう。しかし私達が御父母様を慕い侍っていくのは感覚存在としての私だけではなく、地上と霊界を結ぶ橋としての存在としても、そして霊的存在としての私としても御父母様を慕い侍っていくのであり、そうであれば御父母様の三回の結婚式の意味をよくよく理解する必要がある。御父様の御話に、「D-DAYがいつで、その日に本当に真の父母という人が来て結婚式をするのですか?」と、捉えようによっては他人事のように真の父母について触れておられる。それはみ言葉の随所でそのように触れているのを伺えるが、それは天の位階の位相について語られる時にそのように話されておられ、そうすると一次、二次、三次に亘る結婚式が夜の神様の位相、昼の神様の位相、真の父母の位相と関係があると理解できる。「天地共鳴圏と真の父母様御成婚式」(2011、9.02)のみ言葉の聖婚式について、三次が最後であること、どんな王の記念日の百倍を越えなければならないこと、三次の単(一)、十、百のこと、そうしてその話の流れで、夜の神様、昼の神様、真の父母様を訪ねていき、堕落していない位置で侍ることのできる息子と家族と氏族を全て知っておられること、そして私達を無条件で連れて行くことはできないこと、と話しは続いて行く。自ずと三次に亘る結婚式は三位階の位相に関わることであり、単十百は息子、家庭、氏族に関わることであることがわかる。御父様は霊界を越えて神界に関わる内容にまで触れておられることを理解できるけれども、霊的無知で霊界の事実さへも理解できない者が更に高みの領域の内容を正しく理解できるとは思わない。少なくとも私達の今の内的霊的段階ではそうだ。そんな者達に天臨の秘密を敢えて教えられたのは、もうすぐ地上を去られるのを決めておられ、肉体に住まわれておられるうちに言葉として残しておかなければという想いから語られたみ言葉のはずだ。御父様を本当に慕い侍る者であるなら、どのようにしてでも次元を高め、残された難解なみ言葉を理解して人類に差し出すことも私達の使命だ。

2014年2月13日木曜日

機械文明から生命文明に

昼の現実を夜の事実の海から触媒を汲み出し、主管的、創造的にみ旨の願いに適った現実へと変えていく。置かれている現実に翻弄される限りは、全ての愛の主体であられ、主管主であられ、創造主であられる天の父母様との経路を断ち切られているか、或いは正午定着的な関係性を持ってはいないと言えるだろう。見て聞いて手を加えている現実という感覚世界は、その本質を見届けることなしでは顔のない変幻自在の怪物のようで、或る時は弄び或る時は包み込み、そして或る時は容赦なく牙を剥く。現実をどう手懐けるかは、現実を越えた位置で現実を主管できなければ、逆に主管されてしまう。現実というこの感覚世界を主管するためには肉体の存在、心魂の存在を超えて霊の存在、精神の存在の私を自覚するのでなければ、現実に対する主管性も創造性も備わらない。認識すべきことは、感覚世界に於いて、これまでは外的無知を克服することで鉱物世界への主管性と創造性は復帰されてきたけれども、植物世界、動物世界への主管性、創造性は未だ多くは復帰途上にあるということだ。科学の分野では鉱物の力を創造的に用いて現代文明を築いたけれども、植物の力、すなわち生命の力を主管するには至っていない。生命の経過は認識できても種子から生命が発生する力については殆ど無知だ。鉱物世界を頭脳で認識し応用したのに比べ、植物世界は心魂作用で認識し応用できるのであり、人類が心魂作用を能動的に働かす存在となるには至っていない。平たく言うと、愛の人類には至っていない。統一の群れこそ愛の人類としての進化的最先端で、愛の開拓を担う者であるけれども、御父様の言うところの真の愛を発動できる我々となるために訓練を受けてきたが、開拓に於いて犠牲と困難が伴うのは当然であり、落ちずに居残った者達こそ新しい真の愛の人類の先祖だと言われるに値する。人類が生命の力を主管、創造できれば、想像だにしなかった人類文明が築かれる。種子に意志を投入することで、目の前で瞬時に芽を出させ、花咲かせる業ができるだろう。機械文明からは想像もできない生命文明が未来に待ちうけている。私を翻弄する現実を、牙を剥く現実を、愛で昇華することこそ愛の開拓者としての私の使命だ。苦々しい現実を愛おしく思えれば、愛の勝利の女神が直ぐそこに待ちうけている。

2014年2月11日火曜日

秘儀の入り口に立つ (2)

堕落によって神様との関係を絶ってしまった人類は、時代時代に於いてある特別の存在を通して復帰摂理を導かれ、復活に至る道を用意されて来た。それは預言者の存在ということだけれども、彼らは特別の修練、秘密なる儀式で高次の神霊存在に出会い、高次の霊界で見聞したものを地上に届ける役目を果たしていた。それは眠りのような無意識な状態で神霊体験するのではなく、生きて死を体験する、すなわち意識的に死を体験することによって、高次の霊界の事実を地上に届けることができた。彼らは特別の使命を受けた者達であって、生きて地上に戻ることができないリスクを冒して神霊への霊的道筋を開拓することで、一般の者でも接触でき神霊と繋がることができる道を見出して来た。洗礼ヨハネが授けていた洗礼儀式もそのようなものだが、当時の洗礼はクリスチャン達が聖水をかけられて洗礼を受けるというような象徴的な生易しいものではなく、頭を川の中に抑え込まれ、全身をザンブリと沈めて、半仮死状態にして神霊体験をさせるというような、実に荒っぽいものだった。しかしそれでも先進的な復活の業であり、同じ系統の神霊の導きは中心的クリスチャンによって受け継がれ、そして中心的な統一の群れによって祝福式の中に受け継がれている。統一教会の儀式の中で、聖酒式は聖酒を戴くことで重生する儀式であり、家庭を出発する時には三日儀式もあるが、酒を禁じていながらも儀式にそれを使われるのであり、性でもって堕落したものを性でもって復帰するのであり、その儀式がサタンが認め神が認める、御父様が生命を賭した戦いの結果として導き出された血統転換の公式(方程式)という秘儀中の秘儀であり、儀式を通過した祝福家庭は現代の秘儀参入者達だと言うことができる。しかし秘儀がその儀式の瞬間に終わるのではなく、預言者達が生きて死を体験したように、私達は生涯を通して、この世的な感覚的嗜好や喜びを否定しながら、この世的死の道を歩み続ける。それは生涯そのものを秘儀的に送るということだ。しかし寂しく思う否定的感情に留まるだけではなく、その感情を昇華させて神の心情復帰に至るのであり、心情のひとつひとつを復帰する実感こそが私達が天の父母様と共に生きているという本当の現実だ。御父様が言われたように、「相対者の顔が問題ではない、学力が問題ではない、その微妙な姿が問題ではない、神様が住みつける心情の量が如何に立体的になっているか」という、それが問題であって、相対者がこの世的魅力に欠けるとしても、私が高次の神霊存在に出会うその門の鍵を持っているのは、誰でもない与えられた相対者だということは公式だ。しかしそれでも敢えて言う。だからと言って姉妹達は女性としての魅力を磨かないのは怠慢以外の何物でもないだろう。誰に魅力を振りまかなくとも、夫の前では最高の女性としての魅力を差出すべきだ。

秘儀の入り口に立つ (1)

麻薬が駄目だということも、酒やたばこも駄目だということも納得している。それらは習慣性のものだから遠ざけてしまえばそうそう手がのびて誘惑に駆られることはない。しかし性についてはどうだろうか。男だから男の性については良くわかっているつもりだが、これは習慣性の問題として片づけられるものではない。逆に遠ざければ遠ざけるほど益々切望は濃くなっていくものだ。この男の性(さが)、男の衝動を、どう認識し、どう対処すればいいのか。ひたすら衝動を押し殺すことにどういう意味があるのか。常識人であればそう問うことになる。絶対性は男にとっては半ば人生の喜びを諦めるに等しい、と言えば随分堕落的な言い方だが、性的な関係が禁止される場合、どうしても感覚欲の渇望に晒され続ける。御父様が青春時代よ早く過ぎ去れというのが、若き頃の強い感覚欲を持て余されたことへの叫びなのかどうか、頭を垂れ視線を落として外界の刺激から身を護られたお話からすればおそらくそうなのだろう。横的な愛の遣り取り、性愛の行為はそれ程に刺激の強いものであり、それを否定して絶対性の私を生き、生きた供え物になることが私の男としての、即ち天使長の位置(相対者以外の女性に対しては天使長の立場)にある者としての使命のはずだ。しかし周りを見れば誘惑が多く、美しい存在、甘い蜜の存在が目の前に居て、み言葉を知る私はそれを毒薬だと判断する。み言葉を知る私と感覚を生きる肉体の私がいて常に戦っている。しかしこの衝動の試練、偽りの愛からくる衝動を否定して真の愛による絶対性を立てることに勝利しなければ、戴いた祝福、重生した私であることを否定したことになる。あからさまに言うと生々しいが、男として、家庭を持つまでは夫婦生活への期待感で男の感情を説得することができる。そして家庭を持てば夫婦生活への充足感で癒されるものだけれども、どちらか一方が昇華、或いは感情的または肉体的理由で体を重ねることができなくなった場合、衝動の行き場を失うことになる。本当の戦いはそこから始まると言ってもいい。自己否定というけれども、感覚衝動を否定することは生きるという欲を否定することでもあり、その否定にエネルギーを注ぎ込めばもはや生きた屍、この世で戦い発展していく力など残ってはいない。欲がない食口しかこの道に生き残れないとなれば、要するに発展的要素を持たない群れだと言うことになる。欲を否定し、すなわち発展的要素を否定しながら、一方で実力を要求されるという、何とも矛盾した歩みを要求される訳だけれども、しかし、そこに留まっている限りは統一食口の統一食口たる意味はない。矛盾と不合理がまかり通る歩みだからこそ、一般人では伺い知れない私達食口を霊的内的秘儀に導く何かがあると思わなければならない。

2014年2月8日土曜日

今日の想い 702

騙され隙をつかれるこの世の中で、疑心暗鬼にならずに世渡りするにはどういう姿勢が必要だろうか。外的に自分を護ろうとすれば、どうしても穿った目で対処すべき状況を見がちだけれども、そうなると内的な構える姿勢が常となって受け取るべきものまで排除しかねない。御父様の書かれた「栄光の冠」には、騙されたとしても信じ、裏切られたとしても許すという姿勢を差出しておられるけれども、ビジネスを営んでいれば、ありとあらゆる勧誘に晒され、四方八方からこうしろああしろと雑多な声が煩く鳴り止まない。殆どの声には耳を塞ぐとしても、中に一つ二つ実に狡猾なものがあって、私の堕落性をうまくついてその隙間から侵入し、私の意志の衝動を促す。後になって落ち着いて見れば、明らかにおかしいと思える自分の行動も、その時には不安や心配が塊となって心の中を占め、それを取り払いたいが為だけに行動している。正しい判断ができない暗黒のド壺にすっかり嵌ってしまう。振り込め詐欺にかかってしまう人の話しを聞きながら、ありえない話だと蔑むように見ていた自分が、その思い込みこそが彼らの狙い目だということが今回よくわかった。正直な話をすると、ものの見事に騙された。これまでのビジネス摂理の流れの中でも、表立っては言えない騙された事案が多くある。その報告を受けられる御父様はそれをどう認識し、どう消化され、どう将来的に繋げていかれたのだろうか。それを失敗事案としてだけ処理されたはずがない。現実は騙されたことになるのだろうが、奪われたことで得ようとされる何らかの霊的事実が必ずあるはずで、それが、これからは気を付けようというような単に痛い授業料として捉えることだとは思わない。しかし私達の次元に於いては、奪われたら十倍にして奪い返すという決意を差し出し、奪われたことで奮起できるなら取り敢えずのバランスは取れたことになる。口惜しい思いだけで終わり、それが自信損失に向かうのであればそれこそサタンにしてやられたりと白旗を上げたことになる。騙された相手がいればこそ騙されたという自覚があるが、相手の見えない騙されて失っているものも少なくないはずだ。実際その相手の見えない(いない?)損失の方が遥かに大きいのではないだろうか。奪われた相手も見えないけれども、奪われたという事実も見えない。だから奪われたという自覚がない。疲れてみ旨に対してやる気が出ないというのは、何らかの原因に拠るエネルギーの枯渇や漏洩だ。ようするにエネルギーを奪われている。それは騙して奪っている見えない存在がいると言えるのだが、霊的無知故にそれを感知できない。本当はそこに意識を向けて自己改革すべきだけれども、堕落的自分を護ろうとするから疑心暗鬼になり、内向きになり、奪われると構えながらも内なるものが奪われている。

2014年2月7日金曜日

今日の想い 701

アベルの系統を受け継いだ祭司集団は神霊を受け取る受動的で直観的な女性性であり、それに対抗するカインの系統を受け継いだ石工集団は地上に働きかける能動的で認識的な男性性であった。摂理を進める統一の群れは、アベルである教会とカインであるビジネスの両輪がうまく回転することで、摂理的前進を果たしていくことができる。教会であるアベルは、その教会内に於いてもアベル的位置とカイン的位置があって教会の使命を果たせるように、ビジネスであるカインも、やはりその中に於いてアベル的立場のビジネスとカイン的立場のビジネスがあって、ビジネスとして発展させることができるはずだ。水産摂理を進めてきたのは日本食口を中心とする卸流通ビジネスとレストランビジネスがその二大柱であったけれども、御父様が意識的にそのように摂理されたのか、或いは結果的にそうなったのかはわからないが、そのどちらのビジネスにも関わった立場から見ると、卸流通ビジネスはカイン的ビジネス、レストランビジネスはアベル的ビジネスと言える。それはアベルのレストランの配下にカインの卸流通があって従うべきだと言う意味ではなく、冒頭に述べた祭司集団と石工集団の性格からしてその在り様をアベルカインに分けることができる。卸流通はどちらかと言うとシステムによって動き、システムによって売り上げも利益も確保できる要素が強いのに比べ、レストランはサービス業という形態からシステム以上に運営する人間性や思い入れに大きく左右され、売り上げも利益もそれに拠っている。その意味で卸流通の認識的ビジネスに比べ、レストランは直観的ビジネスだ。だからどれほどレストランビジネスにシステムを導入するとしても直観的なものが主導されなければレストランではなくなってくる。サービスの向上と効率化(システム化)は反比例する部分が多く、特に客が見えて触れる部分では効率を感じさせては駄目だ。効率化を取る部分も、客目線からはショウサービスだと思わせるような効率作業にならないと、客を白けさせてしまう。レストランビジネスに深く携われば携わるほど、直感的なものが訓練され養われる。これからのビジネス、趣味産業と言われるサービスに関わるビジネスは特に、システム主導の認識的発想を対象的に捉え、人間性主導の直感的発想を主体にしてこそビジネスとして発展成長するのではないだろうか。今まで何度も書いたように、ビジネス摂理に与る者はカインの本分を果たすこと、カインの本分を果たして正当なカインとなる新カイン集団になるべきだ。石工集団は鉱物資源の知識を得て文化を形成していったけれども、水産摂理を担う魚集団は水産資源の知識を得ることで文化を形成していく。

2014年2月5日水曜日

今日の想い 700

拉致被害にあってきた多くの食口に取って、今回の勝訴は霊的暗雲に大きな穴が開けられ眩しい光が彼らに差し込まれた。と同時に御父母様に対する汚名、教会に対する汚名を払拭する役割も果たしたと言える。それは世間の人々が受ける教会の印象に善なる影響を与えたということもあるけれども、それ以上に食口の持つ印象、特に教会に対する食口の印象、それは犠牲を強いられた、そして棄てられたとさえ思えるような、ドグマ的(独断的)強制犠牲主義の教会だという負の印象をも食口から拭った役割を果たしている。極めて私の個人的感情的意見だけれども、被害のあることを知りながら、何年もの間結果的に無視し続けてきた教会であることは言い訳の仕様がない。それがどういう意図と計らいでそうなったのか、それを今問うても仕方がないのかも知れないが、おそらく教会が注目されることで別の被害が発生することを憂慮して、結果的に無視し続けた、声を大にして信者を護ることを投げ出したと言えるのではないだろうか。それは反社会的であり倫理にも反する教会だと世間に批難されて味わう情けなさ以上に情けない思いが込み上げる。彷徨う人々を救う教会であるのに、拉致までされて、肉体的精神的被害を受けている食口さへ救わず放っておくなら、統一教会のどこに真の愛があるのかと叫ぶ食口が出てきても当然だろう。今回の裁判を起こすことに彼が名乗りを上げて戦わなければ、信者への態度という教会とカルトの違いは何かという食口の認識はどんどん曖昧になる。個人が立ちあがり、教会を保護する形で戦うのは、その彼に対しては畏敬の念で見上げるけれども、戦わなければならないのは本来教会であって、やはり教会に対する失望の念は濃くなる。彼の決意と覚悟は教会の態度を次第に変えていったけれども、教会は本当に今のままでいいのかと心配に思う。霊感商法でやり込められ黙すのではなく、逆に拉致被害の問題があることを叫んで欲しかった。あのオウムの広報担当でさへもあれだけ叫び続けたのに、どうして教会の広報担当は黙して語らずなのか。言葉尻を取られることに汲々とするような、そんな尻の穴の小さい者達ばかりなのか。本当はこんな事を吐き捨てようと思って書き始めたのではなかったが、今まで敢えて拉致裁判の事には触れないようにしようと思ったけれども、結局とうとう悪態をついてしまった。

2014年2月4日火曜日

今日の想い 699

フリーメイソンの精神的系統を辿っていけばソロモン神殿を建てた棟梁ヒラムを中心とする石工集団が存在しており、そのヒラムを更に遡っていくとカインに辿り着く。その一方でソロモンを中心とする祭司集団があってセツがその代わりとなったアベルの系統を受け継いでいる。祭司集団に言い伝えられてきたものが形として記されたのが旧約聖書であり、それと同じように石工集団にも言い伝えられてきたものがあって、それがフリーメイソンの神殿伝説だ。それが聖書のように記されたものとして残っているのかどうかわからないがその伝説にこうある。ひとりの神がエバと交わって生まれたのがカインであり、今ひとりの神がアダムを創造し、エバがそのアダムと交わって生まれたのがアベルだという伝説だ。堕落という問題は聖書には記されているが、神殿伝説はカイン側、すなわちひとりの神である天使長ルーシェル側からの伝説だから、堕落とは捉えず異なる神の系統だと説明するに留まっている。石工集団は要するに当時の先端技術集団であり、この世の神であるルーシェルが地上を主管し把握するうえでいつの世にも先端技術の群れは精神的カインの系統を汲んでいて、現代に於いても科学技術に関与する者達は理神論も含めて唯物論側に立っている。科学は神なき神秘主義、五感感覚を神とする神秘主義だとも言え、化学反応に見るような実に神秘的な体験に関わっている。アベルの系統は神霊と授受し受動的そして直観的であるのに対して、カインの系統は地上と授受し能動的そして認識的な立場を取る。いつの世に於いてもアベルカインの一体化が問題視されてきたが、今までは地上に於いてはサタンが常に先んじており、力あるカインにアベルが後を追うのが先天時代だったのに対して、後天時代は長子権を得た力あるアベルにカインが従っていくのであって、フリーメイソンの精神的背景を受け継ぎながらもアベルに従う立場を取る新カインが登壇してくる。新カインの群れが何処から現れるのか、もし私達祝福家庭の中から現れるのであれば実体天一国の実現は実に早く、御母様が明言しておられる2020年が現実的なものとなる。しかし御父母様の勝利圏の相続が遅いと、外部の群れを教育することで新カインとする時間のかかる遅々とした歩みになりかねない。女人禁制であったフリーメイソンが女性の入会を許すようになったのが象徴的であるように、御父様が言われたようにこれからは女性時代だ。女性と言われるのはあくまで女性であって個体的女を指して言われた言葉ではないと思っているが、それは認識的である前に直観的であり、直観的(神霊を受ける立場)でありながらも地上に於いては能動的な在り様を持っている。統一教会は御父様に愛された女性が先ず訓練され、女性に引っ張られるようにして男性が付いてきた印象があるけれども、2020年に向けての牽引も女性性を前面に立てて為される。新カインの登壇は女性性であり、女性性こそ地上権威の中核であったフリーメイソンを呑み込んでそれを凌駕する新カイン集団として現れる。

2014年2月2日日曜日

時間概念

人間は自分に与えられた時間が限られたものであることは自覚しているが、そのリミットがいつかはわからず永遠でもあるかのように生きている。限られてはいるけれども、いつ始まっていつ終わるかを算段しながら時間を主管している訳ではない。そうしてそれらの思考は、時間は留まることなく流れ続けるものであるという観点に立ち、更にこの地上に存在する以上誰もが同じ時間の流れを体験しているという観点に立っている。しかし本当にそうだろうか。地上の存在である以上、過去と現在と未来がどうかを問えるのであり、一瞬にして目の前に存在し始める過去を問えない存在、或いは一瞬にして目の前から存在を消す未来を問えない存在など地上にはあり得ないので、時間が止まるという観念は地上に於いては考えられない。しかし時間の流れとなると地上世界全体的に流れが速くなったり遅くなったり、また個人個人に於いて時間の流れ方が変わっていたりというのは考えられる。「アダムからノアに至る一六〇〇年間に十代を復帰した時代から、四〇〇年間に十代を復帰する時代に移ったので、ノア以後、人間の寿命は、急に短くなったのである。」と原理講論にあるように、この短命は幼年、青年、壮年、老年の途中のどこかでちょん切られた短命ではなく、圧縮された短命だと言えるから、時間の流れが濃密化され早くなったということができる。また若い時の時の流れに比べ、年を取った時の時の流れがどれほど早いかは誰もが実感することであり、そうなると老いも若きも誰もが同じ時間の流れの中にいるとは言えなくなる。更に受け取りたくない感情の時は時間の流れが遅く、楽しい時や嬉しい時はあっという間に時間は流れる実感からしても、時間が同じ流れだとは言えない。そうなると正確な時間を刻む時計は肉体生活の標準ではあっても心魂生活の標準にはなり得ない。肉体生活の時間に心魂生活が縛られればより唯物的な在り様になるだろうし、逆に霊的なものを中心として濃密化した心魂生活が地上で送れるなら心霊的な在り様になる。明日がある、さらにその明日があって途絶えることがないという感覚は、時間概念を正しく受け取っていない堕落的な時間感覚だといえる。本然としての時間概念をより正しく受け取るなら、明日があるかどうかはわからないという感覚が私の中にあり、今日の一日は過去になかったし明日に代えられるものでもないという感覚が私の中にあり、さらに心魂の試練にある時こそ時間は濃密化されて地上時間の何年分ほども多くを得るという感覚がある。御父様が言われる「1秒間で世界(世の中)が変わり、先天と後天が1秒を中心として別れ、習慣性を中心として今日も昨日の時間が延長したものと思っていて、千年万年持続した生が1秒間で変わることに誰も気付かない。」とは、この世の時間感覚では受け取れない、本然の時間概念を得てこそ言える言葉だろう。

2014年2月1日土曜日

天一国2年を迎えて

天一国2年を迎えて敢えて言いたいことがある。祝福家庭は祝福家庭としての本分を果たすべきだ。創造目的は地上天国実現を持って為される。復帰摂理の第一次的目的も地上天国の復帰であって、地上天国、即ち実体的天一国の実現をもって天宙復帰は為される。私達は意識のベクトル(方向性)を180度転換しなければならない。個人を復帰して家庭、家庭を復帰して氏族、氏族を復帰してそれから国家、という流れが観念として私達の中に固定されている。だからどうしても家庭復帰、夫や子供を繋げることに躍起になるし、子供の祝福に奔走している。それに執着していると言ってもいい。そうして氏族復帰へと意識は向かうが食口の意識の光が及ぶのは最長氏族復帰であって、それもどうしたら復帰できるだろうかという方法論に遊び、決意と覚悟を差出すほどの濃密化された意識は届いていない。それ以降の国家復帰、天一国実現ともなるともはや抜け殻の言葉に過ぎなかったりする。御父様は明確に天宙復帰を視野に置かれることでブループリントとしての天一国を創造され、そのブループリントに従って実体の天一国実現を願われて私達に託された。その描かれたブループリントをありありと見ている食口がどれほどいるだろうか。今の食口の基準からすると、三年で天国はできると、全世界食口フリーパスの世界になると、幼稚な天国情景描写、天国知識ではあったとしても格段に40年前の食口の意識の方が高かった。変に知恵がついたのか、地上の現実に染められたのか、今の私達の冷めた意識が高邁だとはとても言えない。御父様は御家庭を犠牲にされなかっただろうか。御子女様を放って置かれることを願われた訳ではない。よりカインの子女を愛し、より公的な立場を優先された為に結果として御家庭が犠牲になることになった。その御父様を見てきた私達でありながら、子供の教育の為にと言い、子供が信仰を立て祝福を受ける為にと言い、氏族復帰だと言い、そう言いながらより公的な位置を蔑ろにして御父様の前で言い訳が立つだろうか。実体の天一国実現に決意と覚悟を差出し、灰も残らないほどに燃えに燃えてこそ、氏族復帰も、それから子供への関心も本物になる。心情に立つことと、条件的なことは異なる。勿論、子供は祝福を受けさせるべきであり、氏族は復帰すべきだ。しかしそれは御父様の心情に立つ時、必要条件ではあるかも知れないが十分条件とはならない。三代圏が立つ家庭を祝福して讃美し、氏族復帰が形になっている家庭を畏敬の想いで見上げ、しかし一方で実体の天一国実現に向けて私には私の使命があり、それは未だ家庭が立たないことや氏族が復帰されないことへの減少感や偏った執着心を克服して立てるべき私の本分だ。私が祝福家庭として立てるべき本分だ。カインの正道として立てるべき本分だ。そこに思いが至れば、今何をすべきかが見えてくる。私にとっての真の愛といえるものの実践だ。