2014年4月30日水曜日

しあわせのうた

目の前の現実の波に飲まれて、挫けそうで心はへとへとなのに、追い討ちをかけるようにさらに残酷な現実の大波が襲いかかる。心はひとたまりもない。夫婦一体船は、左舷である妻を病という大波で叩き付けられるという、いつ終るとも知れないウネリの魔界域を航行しているようだ。再度移植の連絡が来て、手術も成功して、妻もやっとこれで人並みな健康生活が送れると喜んでいた。しかしそれは瞬く間の喜びだった。長く期待もして来て、そして事実手にもして、しかしやっと手にしたと思われたものを奪い去られていく。だったらどうして期待させ、更に奪うことを前提として手にもさせたのかと、妻は裏切られたその怒りと悲しみで逆上した。このまま何もせずに死んでいくとまで口にした。私は言葉が出なかった。冷めた蛍光灯の光で、頼りなげに浮かび上がったベッドの上で、妻は表情を強張らせていた。見開いた目から部屋の隅々へ強い視線を照射していて、奪った犯人を捜しているかのようだった。私はベッドの横のパイプ椅子に座り、俯いたまま時間は流れていった。ベッドの柵だけを凝視しながら時間は流れていった。体は極端に強張っていたし、両手こぶしは膝の上で強く握り締めていた。怒り以上に悲しかった。ただただ悲しかった。その悲しみは何もしてやれない苛立ちでもあり、終ることのない試練への疲れでもあり、執拗に痛め付けられる運命への恨みでもあり、そんな苦い味わいの感情の数々が入り混じった悲しみだった。そうしてやっと口を開くと、元気付けるでもない叱咤の言葉を浴びせて勝手に悲しみをぶつけた。そして涙が止め処もなく流れた。隠そうにも隠し切れずにいると、しかしその私の動揺に虚を付かれたのか、自分の感情だけに意識を向けていたのが夫である私に向き直った。二人一緒に暫く悲しみに沈んだ。そして私はその瞬間を幸せだと思った。悲しみに暮れながらも幸せだと思った。喜び楽しいことが幸せなのではなく、二人一緒に喜怒哀楽を味わうことが幸せだと思った。たとえ明日をも知れない命であっても、喜怒哀楽を通しながらも喜怒哀楽を越えて一体感を覚えたものは、霊的精神的領域に届く本質的な幸せだ。その夫婦にとってそれは唯一であり、絶対であり、永遠なしあわせだ。二人で味わう喜びの涙も「しあわせのうた」だけれども、二人で味わう悲しみの涙も「しあわせのうた」だ。悲しみの中で「しあわせのうた」を歌い、「しあわせのおどり」を踊る。

2014年4月24日木曜日

今日の想い 727

とにかく先が見えない。蹴躓き、穴ぼこに落ち、不意打ちをあちこちから喰らいながら、それでも手探りでも進む以外ない。時間の流れは止まらないからだ。時間は今、急流域を通過している。矢継ぎ早に問題は発生し、感情はもう高まったり沈んだりとジェットコースター状態だ。まったく訳が分からず、何とかつかまる物体を引き寄せ身を預けようとしても、目先に迫る突起した岩にぶつかれば物体もろとも粉々になる。だから何の身を預けるものもない。ただただ時はひたすら急流を駆ける。「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るのより難しい」とマタイ伝にあるけれども、地獄の世界から天国の世界への抜け穴があって、その抜け穴が針の穴より小さければ、全財産を捨てるどころか世界観すら捨てるのでなければ抜け穴は通れない。また胎児が入れるとも思えない細い産道を通過して地上世界に生まれる為には破水しなければならない。そのように私達が後天開闢時代という新しい時代圏を生きる為には、あらゆる執着や暫定的観を捨て去って、縦的真の父母と横的真の父母が交わる90度の一点に立ち返るのでなければ、既に用意されている新しい地上天上天国への小さな入り口はわからないし、見えているとしても入って通過しようとは思わないだろう。実は既に旧来の世界観で生きる世界は明日をも知れぬ状況なのに、真の愛の観で生きる新しい世界、地上天上天国で生きることが恐ろしいと思っている側面がある。そうなると入り口に頭を突っ込んだもののその試練に堪えかねて、要するにビビってしまって崩れ去る元の世界に戻ってしまう。胎児は産道を通過することを恐れてはまだ見ぬ地上世界に生まれることはできない。私達は先が見えないから恐ろしく思うのではなく、先の見えぬ期待感を持つべきだ。私達は躓き、穴ぼこに落ち、不意打ちを喰らうことで、太った肉(執着や世界観)を削ぎ落す内的霊的清涼感を覚えるべきだ。この肉体を打たれれば打たれるほどに、この心をズタズタにされればされるほどに、私という霊が嬉々として生きる新しい世界が用意されていて、その霊的光さす産道の出口が近付いたと期待すべきだ。

2014年4月22日火曜日

今日の想い 726

私はある固定した信仰観を持っている。その信仰観は統一教会の標準的信仰観と差異はない。信仰観と共に、教会信者としてのイメージもある。そのイメージは祝福を受けているとか、酒やタバコはしないとか、不倫はしないとか、そういったイメージで自分の輪郭を取っている。イメージ=信仰ではないけれども、標準的信仰観を持っているからイメージも他の信者と同じように標準的だ。そのイメージを現実の私に当て嵌められなくなれば、私は標準的信仰観で裁かれ、それ以外の信仰観を受け入れる程の懐がない以上離れることになる。普通、標準的なものから外れると不安になるから、できるだけそこから外れまいとする意志が働くが、しかし否が応でも標準から外れてしまう時が来る。それは自分の意志では主管できない時であり、一世にとっては二世である子供が標準的信仰や標準的イメージからずれていく時だ。しかし信仰とは本当に標準的であるべきものだろうか、崩して新たに立てる信仰はあり得ないのかという疑問がある。御父母様に正しく向かい、み言葉に正しく向かえば、自ずと信仰もイメージも標準的になるものだろうか。或いは教会全体の標準的信仰観、標準的イメージが変わるまではそれにアラインすべきだろうか。信仰に対しても、イメージに対しても、確実に私の中に縛りがある。その縛りを解き放てば堕落圏に侵食されるという思いがある。しかし信仰もイメージも、み言葉をして私の中に確立されたものではなく、受け売りの部分が大半だ。前にも書いたことがある教条的とは、受け売りの部分に左右される私だと言うこともできる。おそらくそれぞれの信仰観は霊的に神様に直結しているものではなく、霊的無知であると共に心魂的にも無知な部分が多く、何らかの暫定的なものとして信仰観が心魂に植え付けられていると思える。暫定的なものであるから、その標準的信仰観、標準的イメージが霊的救いの摂理の次なる段階の妨げとなってくる。現に一世が抱いていた祝福二世のイメージは多くの場合壊れているのであって、ならば標準的信仰観を崩して新たな信仰観を立てるのでなければ、私の家庭は標準的なもので裁かれ家庭的救いは断念されたも同じだろう。私の体が私と一体となっていて私自身でもあると言えるように、私の信仰観もまた私自身でもある。それを壊すとなると心魂的痛みを覚えて当然だが、壊して新たに建て直す必要があって、しかし建て直す為には確実にみ言葉が中心であり、暫定的な以前の信仰観を越える為にはよりみ言葉を中心に建て直す必要がある。み言葉の鞘に走りがちだったものから、よりみ言葉の本質を中心として建て直す必要がある。分派であれ反対派であれ、み言葉の解釈という違いによって派生するものは、多分にみ言葉の鞘の部分を取り上げるに留まっているが、本質をより深めるなら解釈などと言う概念が当て嵌まる次元を越えている。

2014年4月20日日曜日

今日の想い 725

教会内でもそうだろうけれども、摂理的ビジネスに於いても同じように根拠のない楽観がまかり通っている。今の今まで失敗に次ぐ失敗を続けてきて、為し得ないままの摂理の数々が置き去りにされたまま、倒れた墓石のように累々と横たわっていると言うのに、にも拘わらず楽観がまかり通っている。それにも関わらず新しい摂理だと、未だに責任者は声高に全体の気分を盛り上げようとする。本当は悲観に溢れて、心魂は悲観で雁字搦めにされたまま何の現実的戦略も出せないままなのに、それでも表面的気分だけは盛り上げようとする。楽観が勝敗を決めるという信仰を持ち続けていて、楽観と責任感情の違いを理解していないように思える。今の今まで一向に学習しない食口は、天にとってはそれはそれで貴重な存在なのだろうか。確かに通常の感覚の持ち主なら、いい加減先ず離れるなり距離を置いて俯瞰するだろう。歯車になっているか内側にだけ居続ければ全体は見えず、問題解決の糸口さえ掴めない。それでも歯車で居続けること、内側に居続けることが信仰の基本であり、そこを離れれば「堕ちた」とレッテルを貼られて摂理から外される。摂理から外されることはあっても、私のみ旨はみ旨で進んでいくのであって、「堕ちた」というのは日本的であり村八分的な言い方だ。そんな感覚はここアメリカであっても同じで、日本食口であり日本人村(個団?)に属する限りはその意識の枷に嵌められて続いて行く。80年前後にアメリカに来て、アメリカ開拓当初から歩んでいる食口の中には日本人であることを否定し、個団を無視して歩んでいる者もいるけれども、それならそれでこのアメリカの摂理の責任を明確に引き受けるべきだろう。日本人の片鱗すらも匂わせないで、アメリカ摂理に対する言い逃れを誰にでも、自分にさえも見せるべきではない。自分は日本人だからという言い訳の僅かも許さず、アメリカ摂理に対する甘えも逃げも完全に払拭すべきだ。どんな立場を取る食口であっても、誰にも何処にも勝利の突破口を切り開く天の勇士は見当たらない。御父様の聖和を越え基元節を越えながら、この期に及んでの楽観は無責任と同意語だ。本当は無理だという悲観に暮れながら楽観を装うのは無責任だ。御母様はそれでも、2020年までは食口を信じ、摂理を託して行かれることを明言された。御母様が地上に居られる間に必ず御父様の願いを果たすと約束された一方で、不甲斐ない、責任感情すら忘れてしまった私達を信じて託さなければならない、その狭間でどう胆を決められたのだろうか。結果を出せないことに尽く慣れてしまった一世、それは戦わずして居続けることに慣れてしまったという事と全く同じで、私達一世は荒野で朽ちて逝ったモーセ率いる初期のイスラエル民族と同じように、カナンの福地を前にして消え去るしかないのだろうか。私達の蕩減、生きた御父様に侍るという千年を濃縮した時間を適当に遣り過ごしてしまった蕩減は、決して軽いものだとは思わない。私は霊界に行って、地獄の苦しみを味わう以上に御父様にお会いするその瞬間が恐ろしい。

2014年4月19日土曜日

愛と心情

より愛する者を犠牲にして全体を救う摂理を展開される。神様に愛されれば全てを相続し所有して当然のように思えるが、犠牲にするとは取り去って捧げることだから、相続どころか愛されているのに所有しているものさえも奪われると言うことだ。愛は与えて忘れなさいと言われたけれども、与えたことを忘れなければならない愛の事情があり、与えた愛に対して受け取るものを期待すれば愛が愛として成り立たないということだろう。愛の摂理は愛し愛される者の枠組みを決めてしまえば、そこに犠牲という概念が入ることは無いのかも知れない。しかし救いの摂理となると個人、家庭、氏族と範囲を広げて救いの摂理を展開するのは当然だから、犠牲という概念が入らざるを得ない。氏族の救いは家庭の愛を犠牲にし、国の救いは氏族の愛を犠牲にし、世界の救いは国の愛を犠牲にしている。救いの摂理を展開する為には愛の次元を上げなければ、すなわちより大きな犠牲を払うことを覚悟しなければならないのであり、愛は核だけれども心情は中心だというみ言葉は、心情を中心としなければある次元の愛が核となり、その核が中心となってしまえば救いの摂理は展開されない。愛の次元を上げる為には心情が中心とならなければならないのであり、その意味でも愛の神様である以上に心情の神様だと言うことができる。神様御自身も自身の犠牲を受け入れ、愛する者達の犠牲でさえも受け入れるのは、神様の御心情故だと言える。私達はこれを奪われたあれを奪われたと、そこには神様が振り向いてくれない愛の減少感を覚え、減少感からさらに恨みを覚えるほどに愛の試練に翻弄される訳だけれども、心情の概念は犠牲をして学ぶのであり、さらに綺麗に打たれて捧げればそこには必ず神様の御心情が流れてくる。打たれて奪われてぼろぼろになりながらも、そんな立場で神様を慰めれば瞬時にして神様が私の中に訪ねて来られるのであり、愛の神様である以上に胸の内の心を開かれる心情の神様であり、心情に於ける神様との一体圏こそがお前は私の息子だと神様にかき抱かれる実感であり事実だ。

2014年4月17日木曜日

今年もまた桜に会えた

氷点あたりを行ったり来たりしていた大気温度は先週あたりから急激に跳ね上がり、この勢いだと夏の猛暑に直ぐにも襲われると焦ったのか、一昨日の朝には僅かに芽吹いている程度で色合いなど全く感じさせなかった桜も、その昼には蕾となり、さらに綻び、夕方霞の晴れる頃にはどの桜の木も見事に花開いていた。しかし花開いた翌朝には既に散り始め、何処から来て何処へ向かうか知れない気紛れな春風に煽られて日がな桜は舞い上がり、今日は朝から冷たい雨が降り続いていて、暮れる頃には木々は既に色褪せた葉桜になっていた。今年の桜は冬が長かったせいで、ここ数日の気温の上昇に騙された格好になってしまった。もう少し様子を見る余裕があったら、そんなに生き急ぎ、散り急ぐ必要はなかったはずだ。そう思えるだけに、自然の摂理でも人間社会と同じように、そんな駆け引きがあるものなのかと思わされる。それでも、一気に咲いた花々に春の嵐が吹き荒れて、 一斉に花弁の散って舞い上がる様は見事だった。カインによるアベルの殺戮以降、人類は事あるごとに戦争の強風に煽られて、多くの若い命を舞い上がらせ散らせてきた。民族霊の大木に魂の鈴なりに芽吹いても、生贄の儀式が神とサタンの見守る中で為されて、花開く間もなく死の舞を躍らされてきた。遥か昔から、散り逝く桜の木の下に佇むと魂を抜き取られてしまうという言い伝えがある。今でこそ一笑に付す話だけれども、戦いに明け暮れ血の乾く間のなかった歴史が続けば、犠牲となるとも地上への未練から往生できない魂が、地を這うようにそこ彼処で揺らいでいた。特に桜の花弁は魂達にとっては格好の仮の休息場だった。可憐で命短い存在こそ浮遊する魂達の相対基準となるからだ。散り逝く桜の木の下に佇んでいれば休息場を失う魂達の憑依の対象となる。しかし本来花々は、光の霊を受け取るための器であって、陽の生殖器を受け入れる陰の生殖器のように、太陽の光の霊を受け取るためにそれぞれの美しい花弁を天に開いている。それぞれの花は我こそはと咲き誇っているけれども、花々の中で桜の花ほど健気な花はないだろう。数日の春の柔らかな光さへ相見えるならそれ以上望むことはしない。一瞬の逢瀬を有り余る喜びとして、愛の高揚の酔いの冷め遣らぬうちに散り逝く。桜が散り逝くときの放つ香りほど、健気な女性の愛を表わすものはない。妻には申し訳なくて言えないけれども、散り逝く桜の花が表現するように慕われ愛されたい。実は妻と一緒に桜吹雪の中に暫く佇んでいたけれども、妻は私の想いがそんなことになっているとは露ほども感じていなかっただろう。私がもし正直に桜の花に愛されたいと言ったら、妻はどんな反応を見せるだろうか。

2014年4月15日火曜日

今日の想い 724

霊と心魂を混同してはならないように、愛と情愛を混同してはならない。御父様は訓読会で愛は与えるけれども情愛はかけないと言われたことがある。私達も愛するのであって情けをかけるのではない。愛と情けの違いを言えば、愛は永続性があり情けはその場限りのことで終わる。愛は根をもっているけれども情けは根なし草だ。本然の人間は根をもっている愛の実体だけれども、堕落人間は根のない、すなわち霊的根源を持たない浮遊する心魂存在だ。浮遊する心魂存在が霊界に行けば、中心の霊としての私を見出せずに霊は分散する。霊人体としての統一された私を収拾できず、こちらにいる自分が私の一部のようでもあり、しかし消えてなくなりそうでもあり、あちらにいる自分が私の一部のようでもあり、それも消えてなくなりそうでもあって、地上のような生きている私だという存在感が希薄で、霊界に足を踏み入れて多くは混乱する。霊界に行けば自分の居場所を見つけて彷徨うと言われるが、平安と共に旅する訳ではなく、希薄でなくなりそうで混乱する自分が、何とか辛うじて存在できる環境を狂い求めると言った方が当たっている。情けには霊的に繋がる根源を見出せない。私達は愛と情愛を混同しがちだけれども、情けは結果感情であって結果感情の衝動で行動しても実を結ぶものとはならない。私もよくよく反省しなければならないことだが、子供に対しても、情愛が衝動となって接触することに終始しただけなのか、本当に愛して来たのかを親は問われる。もちろん本然の人間も情愛はあるだろう。しかし情愛が衝動となる情けをかけるのかかけないのかは別問題だ。可哀そうだという憐憫の情から誰彼かまわず衝動的行為に走ってしまう種類の人がいる。普通その場限りの情が長続きする訳でもなく、逆にたかられて痛い目に会うのが落ちだろう。御父様がアメリカに来られた当時は相当に荒れていた。ニューヨークの街もゴミだらけであり、アヴェニューからストリートに入れば浮浪者と乞食が至る所にたむろしていた。御父様はそれに遭遇されて乞われるままに恵まれたこともあるけれども、多くの場合近寄りたかる者を邪魔者として撥ね退けられた。人間の、精神存在としての高みに立とうとすれば、概して情愛衝動を捨てて無情に見られる立場に立たざるを得ない場合がある。しかし私達が気を付けなければならないことは、情けをかける立場ではなく、情けを受ける立場に立ってはいないかと言うことであり、ニューヨークの乞食のように御父母様に群がり情けを乞う者になっていないかと言うことだ。真の愛は霊に根差しているけれども、情愛は根のない浮遊する心魂の通り香に過ぎない。

2014年4月14日月曜日

今日の想い 723

御父様を人間的に見てはならないように、御母様も人間的に見てはならない。正確には人間的とは言わず堕落人間的と言った方がいいかも知れないが、それは人格や人間的感情を越えて非情にも思える御方という意味ではなく、超人的能力を持っておられるという意味でもなく、位相が私達とは異なる位置に立っておられるということだ。心情が異なるということであり、全ての動機が異なるということであり、さらには愛の内容も密度も異なるということだ。御父様は天から来られたけれども御母様は私達と同じ堕落圏から出てこられたと、だから御父様と御母様は異なると言う者がいる。確かにそれは御母様が復帰される以前のエバであれば正しいのかも知れないが、御母様は復帰されたエバであられ、御父様と一体圏に立たれる勝利された御母様であってその表現は当たらない。さらに言えば、御父様を勝利されたアダムとして御産みになられた御母様だと、御母様が存在しなければ御父様が人類の真の父として立つことなど出来なかったのだと、人類の真の母であられると同時に勝利された御父様を排出された御父様の母の位置に立ってもおられる。御母様は聖霊実体であられ、御母様によって私達の霊的なものは生み変えられるのであって、私の心魂に影響を与える何某かの変化を見届けるなら、御母様によって生み変えられた私の一部が変化を与えたと認識すべきだ。生きることの実感は心魂活動から来ているけれども、生きて前進しなければならないので心魂は目の前の現実対処に汲々として活動している。そうなると心魂の根である背後の霊的背景に対しては霊的無知であって殆どを見落としている。しかし霊的感性が冴えてくると心魂の根底や原因的根を見届けられるようになり、心魂の在り様の僅かの変化であってもそれが御父母様に繋がった新生自分から来たものだと認識できる。私達は祈祷を通して、原理用語を並べてみたり、御父様や感謝の言葉を連呼してみたりと、それも祈りと言えば祈りなのかも知れないが、祈祷として神様と会話するというなら、愛と生命と血統の根、さらに良心の根という神様であられるから、心魂の奥の深みまで意識を下ろしていくことで祈祷が会話となり得る。そういう祈祷を学んだ者だけが実体み言としての御父様の本質により近付くことができ、聖霊実体としての御母様の本質により近付いていける。そうしてそういう祈祷が為せる基盤としての感情生活、祈祷基盤としての思考生活を通して祈祷基盤ができる。神様が親しく臨在される至聖所に入るには先ず聖所に入らなければならず、いきなり祈祷という至聖所に入ろうとしても神様と会話できるわけではない。御父様に促されて皆の前に立たれる御母様は、必ずと言っていいほど涙を流された。摂理に向かわれる今の御母様は御父様の姿を前面に立てておられるけれども、御母様の本質、実体聖霊の本質はあの涙される御母様の中にある。祈祷の深みに於いて出会う御母様は涙そのものだ。御母様の涙は犠牲の涙だ。

2014年4月12日土曜日

今日の想い 722

妻は骨粗鬆症で背骨を痛め、私はと言うと店で背骨を痛めた。積み上げたものを踏み台にして、棚の上のものを取ろうとしたら踏み台が崩れて、体制を崩して背骨を痛めた。実はその事故は昨年の暮れの事故なのだが、その時は一日や二日で痛みは治まったにもかかわらず、今になって症状が再度出てきた。背骨は体の中心でありまさしく屋台骨だ。中心を二人とも痛めたということが実に意味深だ。毎日の業務に支障が出るので何とか回復せねばと焦ってはいるが、シャープな痛みではないにしても常に鈍痛があり、頭を後ろに引こうとする度に痛みが走り、なかなか時間が解決してくれそうにはない。妻は常に何処かの不調を訴えているから起こる一つ一つに対して内的意味を問おうとはしないが、私はと言うと清平の修練会以来健康そのものだったので、余計にこの痛みの意味を問おうとする。堕落性が人一倍強いし抱えている蕩減内容も多いので、いつも忘れた頃に大きな懸案事項が起こってきた。一人の時は個人的な懸案で済んでいたものが、家庭を持てば人数にも応じて、あるいは家庭全体としても懸案事項は増えるし、さらに店の責任者ともなれば従業員数にも応じて、さらに店の運営の問題も含めて懸案事項は更に増える。そして起こる時には連鎖するようにまとめて起こったりする。個人の懸案が家庭の懸案にもリンクし、家庭の懸案が店の懸案にもリンクするという、次元の異なる事柄が抜け穴があって繋がっているのか、地上界という面に投射された現実は解決の糸口が見つからないほどの困難な様相を示す。さらには摂理の一端を担い歩むという個人個人の代表的立場、いろんな家庭の代表的家庭、そしていろんな世界の代表的社会として店なり会社なりが立っているから、そんな全てを含んだ現実の事柄に対して詳細に意味を問うことは不可能に近いだろう。それでも複雑極まりない事情圏環境圏に生きて前進しなければ希望は見出せないので、微かであって見え隠れする良心の声を聞きながら、良心の声こそが生きて歩む羅針盤であってそれを頼りに進む以外ない。地上に生きて外的には明るい日の光の中で進んでいるのは確かだけれども、霊的心魂的に見るなら暗雲の中を進んでいる。鈍い霊的感性でも働かせれば、今はまさしく三日の暗黒期間の中で航海していることがわかる。三日は象徴的であってそれが三年かもわからない。とにかく霊的に見れば周囲が真っ暗な状態であることだけは確かだ。霊的無知な私達にとって、暗闇が去って開ける世界がどんなものかはわからないにしても、確実にそこに希望があることだけは感じている。アブラハムの悩んだ三日間であり、モーセのエジプト全土の三日の暗闇の禍であり、イエス様が天に上げられて三時間の暗闇が覆ったのと同じだ。妻も私も暗闇のこの期間に背骨を痛めた。蕩減であるけれども出発の為の摂理でもあると取るべきだろう。勿論それは多くの山積みされた困難のうちの一つに過ぎないが、一つ一つ現実の問題をこなしながら私の全体的蕩減と全体的出発の為の摂理のブロックが積み上げられていく。

今日の想い 721(芽吹いたアロンの杖)

堕落が決定的になったのは、霊的堕落から肉的堕落を経て、最後にカインがアベルを殺したと言う殺戮行為で堕落は決定的になった。霊的堕落は神様のように賢くなりたいという動機から善悪の木(認識の木)の実を取って食べたという知情意的には知の堕落、肉的堕落はエバの恐れがアダムを誘惑しアダムはエバに絆されて時ならぬ時に行為に及んだという情の堕落、殺戮行為は堕落を形にしたという意の堕落となって堕落が決定的になっている。ちなみにカインがアベルを殺害した1対1であるのに大業に殺戮行為としたのは原理にそう記されているからだが、聖書に1対1の殺害のように描いたのは実は象徴であってカイン族がアベル族を殺戮した事実があると私は見ている。人間が霊的存在、肉的存在としてだけではなく、霊肉が相関わる心魂的存在でもあり、3位相界にわたる3数存在であるように、地上界に起る出来事に於いても地上的現実の背後には心魂的背景があるし、心魂的背景は霊的事実によっている。人間は堕落して神もサタンも関与できる中間位置で生まれることになったが、よって神に信仰を立てていた者がある時手の平を返したように急にサタン側に立つという愚かさを持っていると共に、地上の現実は現実だけれども、人間が現実に対してどういう態度を取り、どういう対処をするかで、霊的事実という当然の原因から、別の事実としての霊的芽を発芽させる力がある。起る現実は否定できないけれども、現実に対する態度と対処如何によっては別の霊的事実を引っ張ってこれる。人間の態度と対処は心魂での働きであり、復帰の摂理は打たれた現実から、本人の心がどう態度を取るかによって、神が主管できる霊的事実の芽を吹き出させて霊的血統を繋げる復帰のみ業だ。先ず打たれてそれから奪うという神様の戦法は、打たれた現実から神願う心魂作用を発動することで霊的事実の芽を吹き出させる。打たれて打たれて立ち上がれない状況でも、それでも信仰を失わず信仰的希望を、神様への慰めを、打たれても裏切らないはずだという信頼に対する感謝を、そんな態度が新たな霊的事実の霊的芽を吹き出させる。これこそが神様の霊的血統圏にあることの証だ。血統転換という概念、特に霊的血統の転換という概念は、芽吹いたアロンの杖の如く、堕落によってサタンの血統になったという霊的事実から神様が主管できる事実を芽吹かせて、新しい霊的事実として成長させるという、地上の現実から心魂を経て霊的事実の復帰という逆経路を取っている。死んだ杖から生きた芽が生じる。霊的死から霊的生が発芽する。堕落もエバがアダムを誘惑しないという罪の繁殖をせずに霊的堕落止まりであったなら、すなわち心魂を死亡圏に巻き込まなければ、ここまで復帰摂理がややこしくなる事もなかったはずだ。私達は復帰に関しては随分無力な存在のように思っているけれども、霊と肉の狭間で心の態度をどう持つかで善霊発動ができる。しかし堕落性がみ旨への邪魔をしており、堕落性があると教えられても堕落性を自分の中に認識してはいない。堕落性が抜けて心魂が耕されれば、様々な霊的芽が発芽して新生自分を実体験する。

2014年4月11日金曜日

観を立てる

,ここで再度、自分自身にも念を押しておくべきことは、どれほど私の観を立てることが出来たとしても、すなわち人生観、世界観等のもろもろの観、それはまた原理観、神観によって立つ観でもあるけれども、原理観、神観も含めてそれなりの観を立てることができたとしても、所詮私は主体に対する対象の位置であり、存在せしめられている位置であり、私の救いは私の観によって見届けることはできるとしても、私の観によって救われるのではないということだ。立てる私の観も対象的であり、主体と完全一体とならなければ私の観は主体の観と相通じない。観を立てたいと思うのは、善悪知る木(認識の木)の実を食べたい、即ち神様のような知恵を得たいという内的欲望であって、エバが認識への過分なる欲望を持ったから神様は蛇の誘惑に陥らないように戒めたのであり、観を立てたいという欲望にどこまでも突っ走ると必ず蛇の誘惑がある。蛇の感覚的誘惑に対してエバが感覚に溺れるイメージを持っているけれども、感覚欲望は肉的なものであって霊的なものではない。私の中で原理観、神観が立っていくと、それは成長した認識の木として、あらゆる判断を私の原理観、私の神観で決定しようとする。しかし私という存在が対象であり、ましてや完成途上であるどころか堕落からの復帰途上であって、それは対象の位置にすら立ち得ない存在であって、私の存在、私の救いを私の不完全な観に委ねてしまえば、エバが蛇の誘惑に陥った立場を繰り返すことになる。確かに観は深めていくことができる。すなわち根を深くして強固な観を立てることができる。しかし、より深めればより新たな世界に対する無知を知ることになり、原理を本当に理解しようとすればするほど、益々自分の無知さを知るところとなるのであって、主体である神様に対しては益々謙虚にならざるを得ないし、神様を求め救いを求めざるを得ない。理解するとは理解の背後の広漠たる世界をも垣間見て、新たなる無知を知ることでもある。人は自分の中に観が立ち始めると、その剣を抜いて一刀の判断を押し当てようとする。自分の持ち合わせている観という剣でもって、何もかも一刀両断できると思っている。恐れも畏れも抱くことなく、誰彼となく言いたいことを言い、書きたいことを書く。そこには既に救いの必要性など吹っ飛んでいて、得た剣を振り回すことに嬉々として精神を費やし、霊的無知であって霊的にも心魂的にも救いを求めている自分だという観点がごっそり抜けている。

2014年4月8日火曜日

今日の想い 720

私達の中に約束された祝福家庭のイメージがあるにもかかわらず、しかしそのイメージからかけ離れた現実があり、その当然与えられるはずの期待が裏切られる愛の減少感やら、崩れた祝福家庭の現実を受容しなければならない裁かれた思いやら、現実対処への煩わしさも伴ってとても平穏な地上生活とはならない。食口の罹癌率は不通の6倍だと言う。何らかの精神的身体的障害を持った子女が生まれる率も祝福家庭の方が遥かに高い。私達は異性を思うことですら罪だと厳しく戒めて家庭を持ったにもかかわらず、好き放題遊んだ後に身を固めたこの世の者達が健全な子を生み育て健康に暮らしているのに、貞操を護ることに熱心だった私達が不幸な現実を舐めている。敬虔なクリスチャン家庭に育ったマルクスが、恨みを残しながら神は死んだと結論を出して唯物論を確立したように、私達も神様を恨みかねない、否定しかねない状況にあることを認識すべきだ。試練の大波が襲うたびに、次が来たらもう耐えられないだろうと疲れ切っているのに、どうやってこれからも度重なって襲い来る試練に耐え抜くことができるだろうか。御父様は原理を見出されて神様に詰め寄った時、何度も否定された。しかし否定されても否定されても、喰いついてこれ以外ないとその信念に揺るぎがなかったから、神様は御父様を認められた。神様の試練を越えられた。神様と御父様との愛を中心とした駆け引き(?)が、今度は御父様と私、あるいは私の家庭との間でも為され、本物かどうかの試練を受ける。それはヨブの試練にも似ているように、約束されたはずの期待が一つまた一つと裏切られながら、しかし裏切られたのではなくもともと私の期待が間違っており、認識が間違っていたのだと、期待を捨て認識を捨ててそれでもみ言葉は正しいはずだと、新たな私の期待と認識を、み言葉の鞘ではなくみ言葉の本質で構築していく過程を通っていく。自己否定と言われて来たけれども、自己否定の本当の意味をここに見出せる。信仰の生命線であった持っていた期待を捨て、信仰の存在基盤として持っていた認識を捨て、大きく捨てることで新たに構築するのでなければ、新たに生まれ変わったとは言えない。私の重生の実体的過程、要するに重生の為に産道を潜りぬけていく実体的路程を私達は生きている。より霊的であった重生がより実体的になる。要するに実体基台だ。実体基台を造成して実体のメシヤを迎えるように、実体基台を為せれば重生の実体化を私に見る。

2014年4月7日月曜日

今日の想い 719(絶対性)

良心を考えてみると、自分の隣で飢えて死んでいく人がいれば自分の良心は痛むだろう。しかし世界の片隅で飢えて死んでいく人がいるにも拘わらず、そこに良心の痛みは差ほどない。それは堕落人間だからそうなのか、創造本性の人間は違うのか。もし世界の飢餓の実情を事細かに教えられるなら、より実感を伴うことで良心の痛みが感じられるはずだ。ある者は飢餓の実情を知って募金に勤しみ、ある者は飢餓の実情を知らずに誰かに強制されて募金をし、そしてある者は何かの罪の意識に良心の負債を覚えて、飢餓の実情は知らないまでも募金する、この三者がいるとする。この三者の募金は同じ行為と言えるだろうか。地上での行為は同じでも霊的な意味合いが異なっている。要するに動機が異なっているということだ。私達はこの動機を重要視すべきであって、行為自体を重要視するなら教条的になってしまう。ここで信仰生命上最も重要な問題を考えてみると、絶対性ということに関してはどう捉えるべきかという問題がある。初愛を結んだ二人が一生を添い遂げ、更には霊界でも永遠に二人一体であるべきだが、二人が問題を起こさず夫婦でいるという、その動機がどうあろうと、間違いを犯さなければそれは絶対性と言えるのかどうか。つまり離婚も浮気もせず一緒にいれば絶対性と言えるのかどうか。普通の食口であれば絶対性と言われなくてもそれは当然だろうし、さらに夫婦間であっても肉欲(性欲)が主体でそれが動機で関係を持つなら絶対性と言えるのかどうかという疑問もある。動機という観点から考えて、絶対性と言われたから離婚も浮気もしないと決め、絶対性と言われたからどちらかが先立っても他とは契りは結ばないと言うなら、動機として為に生きる性や犠牲的性ではなく、教条的戒律的なものが主体になっているとは言えないだろうか。御父様から直接にマッチングされた夫婦は、相手への不満があるとしても、組み合わせて下さった御父様の愛を裏切りたくないという動機であったり、子供への配慮からまじめな夫婦で居続ける。しかしそれもまた絶対愛であり絶対性なのかというと疑問が残る。では動機が重要なら動機を正すという言葉があるように、正されれば肉欲の関係する性も絶対性により近づけるとは言えないだろうか。絶対信仰と言われても信仰が揺らぐ場面も多々ある訳で、そうなると信仰が絶対的なものかと問われてはいそうですと言える人は一人もいないだろう。絶対信仰が難しいのに絶対信仰を標榜するのはそう願われているからと言う以外にない。だから絶対という冠を付けられても、絶対が今が今では絶対的に難しい堕落的人間にとっては、そう願われているから動機を正しながら絶対的なものに近付けていくという選択肢しかないと思っている。絶対性についても同じで、夫婦間であっても性行為が絶対性に根差したものなのかどうかは動機をして問われるのであり、形や教条的戒律的なもので絶対性かどうかのすみ分け等できない。現実を言うなら御父様御自身が教条的戒律的な意味での絶対性とは言えない。しかし御父様から絶対性の概念が生み出されたのだから、絶対性は教条的戒律的なものではないと言うことができる。

2014年4月5日土曜日

今日の想い 718

相も変わらず漠然としたイメージのみを皆で共有するだけなら、到達できる目標でも理想でもなく、いつ消えるとも知れないぼんやりとした夢を描いて喜ぶ刹那に過ぎない。夢は夢であり現実は現実だ。夢から現実への橋渡しは、現実に夢は持ち込めないし、夢に現実は持ち込めない。夢と理想ははっきりと分けなければ、無駄に時間を浪費してきたと言われても仕方がないだろう。夢は見るもので形にできるものではないが、理想は極めて現実的に描いて形にするものだ。そのように夢と理想の違いはイメージに輪郭が伴うかどうかであって、更には目標に到達したときの高揚感やそこに至るまでの道筋まで見えてくれば確実に理想であり、既に意志する霊的存在を説得して(屈服させて)引き付けていると言える。夢と理想をはっきりと分ける必要があるのは、今まで摂理を担当しながらいろんな願いを受けてきたけれども、何一つ形になっていないという悲観がある。ようするにこれからも今までと同じように目標を立てようとしても既に悲観が込められてしまう。よって、今までの目標設定は夢に過ぎなかったと、悲観は先天に釘付けて於いて、これからの歩みは現実的理想を明確に掲げることで勝利体験を積み重ねながら、今までの夢の歩みとは完全に区別するためだ。今まで目標設定が高すぎたとかという問題ではない。トラウマを解消し、悲観の心魂的縛りから解かれなければ、掲げる目標を低くすれば為せるというものではなく食口の希望的未来はないだろう。御母様が環境創造と言われる意味を理解しようとするなら、この世が受け入れ、この世が納得する実体を見せて証しできるものを持たない限り、環境創造とは言えない。私達は祝福を戴いて原罪は赦されているけれども、原罪が許された位置に立つことがそのまま堕落性を脱いで個性完成した位置に立っている訳ではない。許されていはいるけれども内的外的習慣性によって同じような内外の生活を続けるならば堕落性は何一つ脱げない。蕩減生活をして復活して行かなければ祝福を受けた意味はなくなる。霊界で必ず問われるだろう。貴方は赦されたけれども、許されてどうしましたかと、、。霊界の天国が統一圏であるならば、統一圏の中で新たな地獄、統一圏の中で新たな中間霊界が生じる。統一圏的地獄が生じ、統一圏的中間霊界が生じる。私は祝福を受けなければ良かったと言う輩達が溢れるだろう。そう吐き捨てるのは、地上でただ祝福を受けただけで、自己と自分の家庭の安逸ばかりに汲々とし、為に生き犠牲的歩みの努力を怠った者達だ。食口達は過去の歩みのように、何となく信仰し、何となくみ旨に歩み、何となく御父母様に侍っているような、そんな夢を見ている状態から覚醒して、明確な理想を掲げ足が地に着いて結果を出す着実な歩みをするようにプッシュされている。

2014年4月2日水曜日

今日の想い 717

教条的だという意味は戒律的だということだ。戒律的だとしても旧約時代のように皆を裁く戒律と中心的誰かが立てられているのではなく、私のみ言葉に対する理解(観念)が私を固定化させ、それで私を判断し皆を裁いている。み言葉の理解は皆が同じ理解であるはずだと思い込み、さらにその同じ理解とは私の理解が標準だという思い込みがある。よって様々な反対意見を述べている者達は、それぞれのみ言葉への思い込みが戒律となって、反対意見に留まらず意見が裁きになっている。反対意見は神様の主管圏内に留まるとしても、そこに裁きが入るとサタンに奪われ、サタンが主管する行動となってしまう。み言葉の言葉に囚われて、すなわち言葉という鞘だけを見てしまって思い込みに囚われ、本質とは異なる方向性を取ってしまう。心魂的な自分を自分の根源にしてしまって、心魂の奥に霊があり霊に至ってこそ自分の根源を確認できるはずが、御父様が言われたように心魂と霊を混同していて霊的無知のままであり、自分の霊への扉が開いてもいないし見えてもいない。見えていなければ霊的影響は受けないかというと、そうではなく、霊的事実は心魂へ深く影響しているのであり、我知らずサタンの片棒を担いでいる。教条主義とは教え通り、すなわち言葉通りということだが、言葉の本質を捉えることなしに言葉通りとはならない。条件は復帰の為の条件であって、条件それ自体が目的ではないにもかかわらず、条件を立てること自体に価値を置くようになったら、本質を無視し言葉の鞘だけを大事にする教条主義に陥ってしまう。み言葉は何度も何度も目を通しながら、さらに異なる観点からも目を通しながら、一つの真理をあらゆる角度から、さらにみ言葉の内側からも見ようとすることで見えてくるのであって、何回訓読したかという数値自体が目的になってしまうと、教条的になることを強化しかねない危惧が残ってしまう。数値目標を立てるよりまだ暗記する方が理に適っていると思えるのだがどうだろうか。100回訓読を否定する訳ではないけれども、本がどうしても苦手だというのならそれもありだとは思うけれども、しかしみ言葉の本質を受け取ろうとする者には数値目標が足枷になってしまう。