2014年4月15日火曜日

今日の想い 724

霊と心魂を混同してはならないように、愛と情愛を混同してはならない。御父様は訓読会で愛は与えるけれども情愛はかけないと言われたことがある。私達も愛するのであって情けをかけるのではない。愛と情けの違いを言えば、愛は永続性があり情けはその場限りのことで終わる。愛は根をもっているけれども情けは根なし草だ。本然の人間は根をもっている愛の実体だけれども、堕落人間は根のない、すなわち霊的根源を持たない浮遊する心魂存在だ。浮遊する心魂存在が霊界に行けば、中心の霊としての私を見出せずに霊は分散する。霊人体としての統一された私を収拾できず、こちらにいる自分が私の一部のようでもあり、しかし消えてなくなりそうでもあり、あちらにいる自分が私の一部のようでもあり、それも消えてなくなりそうでもあって、地上のような生きている私だという存在感が希薄で、霊界に足を踏み入れて多くは混乱する。霊界に行けば自分の居場所を見つけて彷徨うと言われるが、平安と共に旅する訳ではなく、希薄でなくなりそうで混乱する自分が、何とか辛うじて存在できる環境を狂い求めると言った方が当たっている。情けには霊的に繋がる根源を見出せない。私達は愛と情愛を混同しがちだけれども、情けは結果感情であって結果感情の衝動で行動しても実を結ぶものとはならない。私もよくよく反省しなければならないことだが、子供に対しても、情愛が衝動となって接触することに終始しただけなのか、本当に愛して来たのかを親は問われる。もちろん本然の人間も情愛はあるだろう。しかし情愛が衝動となる情けをかけるのかかけないのかは別問題だ。可哀そうだという憐憫の情から誰彼かまわず衝動的行為に走ってしまう種類の人がいる。普通その場限りの情が長続きする訳でもなく、逆にたかられて痛い目に会うのが落ちだろう。御父様がアメリカに来られた当時は相当に荒れていた。ニューヨークの街もゴミだらけであり、アヴェニューからストリートに入れば浮浪者と乞食が至る所にたむろしていた。御父様はそれに遭遇されて乞われるままに恵まれたこともあるけれども、多くの場合近寄りたかる者を邪魔者として撥ね退けられた。人間の、精神存在としての高みに立とうとすれば、概して情愛衝動を捨てて無情に見られる立場に立たざるを得ない場合がある。しかし私達が気を付けなければならないことは、情けをかける立場ではなく、情けを受ける立場に立ってはいないかと言うことであり、ニューヨークの乞食のように御父母様に群がり情けを乞う者になっていないかと言うことだ。真の愛は霊に根差しているけれども、情愛は根のない浮遊する心魂の通り香に過ぎない。

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