2014年4月8日火曜日

今日の想い 720

私達の中に約束された祝福家庭のイメージがあるにもかかわらず、しかしそのイメージからかけ離れた現実があり、その当然与えられるはずの期待が裏切られる愛の減少感やら、崩れた祝福家庭の現実を受容しなければならない裁かれた思いやら、現実対処への煩わしさも伴ってとても平穏な地上生活とはならない。食口の罹癌率は不通の6倍だと言う。何らかの精神的身体的障害を持った子女が生まれる率も祝福家庭の方が遥かに高い。私達は異性を思うことですら罪だと厳しく戒めて家庭を持ったにもかかわらず、好き放題遊んだ後に身を固めたこの世の者達が健全な子を生み育て健康に暮らしているのに、貞操を護ることに熱心だった私達が不幸な現実を舐めている。敬虔なクリスチャン家庭に育ったマルクスが、恨みを残しながら神は死んだと結論を出して唯物論を確立したように、私達も神様を恨みかねない、否定しかねない状況にあることを認識すべきだ。試練の大波が襲うたびに、次が来たらもう耐えられないだろうと疲れ切っているのに、どうやってこれからも度重なって襲い来る試練に耐え抜くことができるだろうか。御父様は原理を見出されて神様に詰め寄った時、何度も否定された。しかし否定されても否定されても、喰いついてこれ以外ないとその信念に揺るぎがなかったから、神様は御父様を認められた。神様の試練を越えられた。神様と御父様との愛を中心とした駆け引き(?)が、今度は御父様と私、あるいは私の家庭との間でも為され、本物かどうかの試練を受ける。それはヨブの試練にも似ているように、約束されたはずの期待が一つまた一つと裏切られながら、しかし裏切られたのではなくもともと私の期待が間違っており、認識が間違っていたのだと、期待を捨て認識を捨ててそれでもみ言葉は正しいはずだと、新たな私の期待と認識を、み言葉の鞘ではなくみ言葉の本質で構築していく過程を通っていく。自己否定と言われて来たけれども、自己否定の本当の意味をここに見出せる。信仰の生命線であった持っていた期待を捨て、信仰の存在基盤として持っていた認識を捨て、大きく捨てることで新たに構築するのでなければ、新たに生まれ変わったとは言えない。私の重生の実体的過程、要するに重生の為に産道を潜りぬけていく実体的路程を私達は生きている。より霊的であった重生がより実体的になる。要するに実体基台だ。実体基台を造成して実体のメシヤを迎えるように、実体基台を為せれば重生の実体化を私に見る。

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