2014年4月2日水曜日

今日の想い 717

教条的だという意味は戒律的だということだ。戒律的だとしても旧約時代のように皆を裁く戒律と中心的誰かが立てられているのではなく、私のみ言葉に対する理解(観念)が私を固定化させ、それで私を判断し皆を裁いている。み言葉の理解は皆が同じ理解であるはずだと思い込み、さらにその同じ理解とは私の理解が標準だという思い込みがある。よって様々な反対意見を述べている者達は、それぞれのみ言葉への思い込みが戒律となって、反対意見に留まらず意見が裁きになっている。反対意見は神様の主管圏内に留まるとしても、そこに裁きが入るとサタンに奪われ、サタンが主管する行動となってしまう。み言葉の言葉に囚われて、すなわち言葉という鞘だけを見てしまって思い込みに囚われ、本質とは異なる方向性を取ってしまう。心魂的な自分を自分の根源にしてしまって、心魂の奥に霊があり霊に至ってこそ自分の根源を確認できるはずが、御父様が言われたように心魂と霊を混同していて霊的無知のままであり、自分の霊への扉が開いてもいないし見えてもいない。見えていなければ霊的影響は受けないかというと、そうではなく、霊的事実は心魂へ深く影響しているのであり、我知らずサタンの片棒を担いでいる。教条主義とは教え通り、すなわち言葉通りということだが、言葉の本質を捉えることなしに言葉通りとはならない。条件は復帰の為の条件であって、条件それ自体が目的ではないにもかかわらず、条件を立てること自体に価値を置くようになったら、本質を無視し言葉の鞘だけを大事にする教条主義に陥ってしまう。み言葉は何度も何度も目を通しながら、さらに異なる観点からも目を通しながら、一つの真理をあらゆる角度から、さらにみ言葉の内側からも見ようとすることで見えてくるのであって、何回訓読したかという数値自体が目的になってしまうと、教条的になることを強化しかねない危惧が残ってしまう。数値目標を立てるよりまだ暗記する方が理に適っていると思えるのだがどうだろうか。100回訓読を否定する訳ではないけれども、本がどうしても苦手だというのならそれもありだとは思うけれども、しかしみ言葉の本質を受け取ろうとする者には数値目標が足枷になってしまう。

0 件のコメント: