2014年4月11日金曜日

観を立てる

,ここで再度、自分自身にも念を押しておくべきことは、どれほど私の観を立てることが出来たとしても、すなわち人生観、世界観等のもろもろの観、それはまた原理観、神観によって立つ観でもあるけれども、原理観、神観も含めてそれなりの観を立てることができたとしても、所詮私は主体に対する対象の位置であり、存在せしめられている位置であり、私の救いは私の観によって見届けることはできるとしても、私の観によって救われるのではないということだ。立てる私の観も対象的であり、主体と完全一体とならなければ私の観は主体の観と相通じない。観を立てたいと思うのは、善悪知る木(認識の木)の実を食べたい、即ち神様のような知恵を得たいという内的欲望であって、エバが認識への過分なる欲望を持ったから神様は蛇の誘惑に陥らないように戒めたのであり、観を立てたいという欲望にどこまでも突っ走ると必ず蛇の誘惑がある。蛇の感覚的誘惑に対してエバが感覚に溺れるイメージを持っているけれども、感覚欲望は肉的なものであって霊的なものではない。私の中で原理観、神観が立っていくと、それは成長した認識の木として、あらゆる判断を私の原理観、私の神観で決定しようとする。しかし私という存在が対象であり、ましてや完成途上であるどころか堕落からの復帰途上であって、それは対象の位置にすら立ち得ない存在であって、私の存在、私の救いを私の不完全な観に委ねてしまえば、エバが蛇の誘惑に陥った立場を繰り返すことになる。確かに観は深めていくことができる。すなわち根を深くして強固な観を立てることができる。しかし、より深めればより新たな世界に対する無知を知ることになり、原理を本当に理解しようとすればするほど、益々自分の無知さを知るところとなるのであって、主体である神様に対しては益々謙虚にならざるを得ないし、神様を求め救いを求めざるを得ない。理解するとは理解の背後の広漠たる世界をも垣間見て、新たなる無知を知ることでもある。人は自分の中に観が立ち始めると、その剣を抜いて一刀の判断を押し当てようとする。自分の持ち合わせている観という剣でもって、何もかも一刀両断できると思っている。恐れも畏れも抱くことなく、誰彼となく言いたいことを言い、書きたいことを書く。そこには既に救いの必要性など吹っ飛んでいて、得た剣を振り回すことに嬉々として精神を費やし、霊的無知であって霊的にも心魂的にも救いを求めている自分だという観点がごっそり抜けている。

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