2014年4月5日土曜日

今日の想い 718

相も変わらず漠然としたイメージのみを皆で共有するだけなら、到達できる目標でも理想でもなく、いつ消えるとも知れないぼんやりとした夢を描いて喜ぶ刹那に過ぎない。夢は夢であり現実は現実だ。夢から現実への橋渡しは、現実に夢は持ち込めないし、夢に現実は持ち込めない。夢と理想ははっきりと分けなければ、無駄に時間を浪費してきたと言われても仕方がないだろう。夢は見るもので形にできるものではないが、理想は極めて現実的に描いて形にするものだ。そのように夢と理想の違いはイメージに輪郭が伴うかどうかであって、更には目標に到達したときの高揚感やそこに至るまでの道筋まで見えてくれば確実に理想であり、既に意志する霊的存在を説得して(屈服させて)引き付けていると言える。夢と理想をはっきりと分ける必要があるのは、今まで摂理を担当しながらいろんな願いを受けてきたけれども、何一つ形になっていないという悲観がある。ようするにこれからも今までと同じように目標を立てようとしても既に悲観が込められてしまう。よって、今までの目標設定は夢に過ぎなかったと、悲観は先天に釘付けて於いて、これからの歩みは現実的理想を明確に掲げることで勝利体験を積み重ねながら、今までの夢の歩みとは完全に区別するためだ。今まで目標設定が高すぎたとかという問題ではない。トラウマを解消し、悲観の心魂的縛りから解かれなければ、掲げる目標を低くすれば為せるというものではなく食口の希望的未来はないだろう。御母様が環境創造と言われる意味を理解しようとするなら、この世が受け入れ、この世が納得する実体を見せて証しできるものを持たない限り、環境創造とは言えない。私達は祝福を戴いて原罪は赦されているけれども、原罪が許された位置に立つことがそのまま堕落性を脱いで個性完成した位置に立っている訳ではない。許されていはいるけれども内的外的習慣性によって同じような内外の生活を続けるならば堕落性は何一つ脱げない。蕩減生活をして復活して行かなければ祝福を受けた意味はなくなる。霊界で必ず問われるだろう。貴方は赦されたけれども、許されてどうしましたかと、、。霊界の天国が統一圏であるならば、統一圏の中で新たな地獄、統一圏の中で新たな中間霊界が生じる。統一圏的地獄が生じ、統一圏的中間霊界が生じる。私は祝福を受けなければ良かったと言う輩達が溢れるだろう。そう吐き捨てるのは、地上でただ祝福を受けただけで、自己と自分の家庭の安逸ばかりに汲々とし、為に生き犠牲的歩みの努力を怠った者達だ。食口達は過去の歩みのように、何となく信仰し、何となくみ旨に歩み、何となく御父母様に侍っているような、そんな夢を見ている状態から覚醒して、明確な理想を掲げ足が地に着いて結果を出す着実な歩みをするようにプッシュされている。

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