2014年4月22日火曜日

今日の想い 726

私はある固定した信仰観を持っている。その信仰観は統一教会の標準的信仰観と差異はない。信仰観と共に、教会信者としてのイメージもある。そのイメージは祝福を受けているとか、酒やタバコはしないとか、不倫はしないとか、そういったイメージで自分の輪郭を取っている。イメージ=信仰ではないけれども、標準的信仰観を持っているからイメージも他の信者と同じように標準的だ。そのイメージを現実の私に当て嵌められなくなれば、私は標準的信仰観で裁かれ、それ以外の信仰観を受け入れる程の懐がない以上離れることになる。普通、標準的なものから外れると不安になるから、できるだけそこから外れまいとする意志が働くが、しかし否が応でも標準から外れてしまう時が来る。それは自分の意志では主管できない時であり、一世にとっては二世である子供が標準的信仰や標準的イメージからずれていく時だ。しかし信仰とは本当に標準的であるべきものだろうか、崩して新たに立てる信仰はあり得ないのかという疑問がある。御父母様に正しく向かい、み言葉に正しく向かえば、自ずと信仰もイメージも標準的になるものだろうか。或いは教会全体の標準的信仰観、標準的イメージが変わるまではそれにアラインすべきだろうか。信仰に対しても、イメージに対しても、確実に私の中に縛りがある。その縛りを解き放てば堕落圏に侵食されるという思いがある。しかし信仰もイメージも、み言葉をして私の中に確立されたものではなく、受け売りの部分が大半だ。前にも書いたことがある教条的とは、受け売りの部分に左右される私だと言うこともできる。おそらくそれぞれの信仰観は霊的に神様に直結しているものではなく、霊的無知であると共に心魂的にも無知な部分が多く、何らかの暫定的なものとして信仰観が心魂に植え付けられていると思える。暫定的なものであるから、その標準的信仰観、標準的イメージが霊的救いの摂理の次なる段階の妨げとなってくる。現に一世が抱いていた祝福二世のイメージは多くの場合壊れているのであって、ならば標準的信仰観を崩して新たな信仰観を立てるのでなければ、私の家庭は標準的なもので裁かれ家庭的救いは断念されたも同じだろう。私の体が私と一体となっていて私自身でもあると言えるように、私の信仰観もまた私自身でもある。それを壊すとなると心魂的痛みを覚えて当然だが、壊して新たに建て直す必要があって、しかし建て直す為には確実にみ言葉が中心であり、暫定的な以前の信仰観を越える為にはよりみ言葉を中心に建て直す必要がある。み言葉の鞘に走りがちだったものから、よりみ言葉の本質を中心として建て直す必要がある。分派であれ反対派であれ、み言葉の解釈という違いによって派生するものは、多分にみ言葉の鞘の部分を取り上げるに留まっているが、本質をより深めるなら解釈などと言う概念が当て嵌まる次元を越えている。

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