2014年4月14日月曜日

今日の想い 723

御父様を人間的に見てはならないように、御母様も人間的に見てはならない。正確には人間的とは言わず堕落人間的と言った方がいいかも知れないが、それは人格や人間的感情を越えて非情にも思える御方という意味ではなく、超人的能力を持っておられるという意味でもなく、位相が私達とは異なる位置に立っておられるということだ。心情が異なるということであり、全ての動機が異なるということであり、さらには愛の内容も密度も異なるということだ。御父様は天から来られたけれども御母様は私達と同じ堕落圏から出てこられたと、だから御父様と御母様は異なると言う者がいる。確かにそれは御母様が復帰される以前のエバであれば正しいのかも知れないが、御母様は復帰されたエバであられ、御父様と一体圏に立たれる勝利された御母様であってその表現は当たらない。さらに言えば、御父様を勝利されたアダムとして御産みになられた御母様だと、御母様が存在しなければ御父様が人類の真の父として立つことなど出来なかったのだと、人類の真の母であられると同時に勝利された御父様を排出された御父様の母の位置に立ってもおられる。御母様は聖霊実体であられ、御母様によって私達の霊的なものは生み変えられるのであって、私の心魂に影響を与える何某かの変化を見届けるなら、御母様によって生み変えられた私の一部が変化を与えたと認識すべきだ。生きることの実感は心魂活動から来ているけれども、生きて前進しなければならないので心魂は目の前の現実対処に汲々として活動している。そうなると心魂の根である背後の霊的背景に対しては霊的無知であって殆どを見落としている。しかし霊的感性が冴えてくると心魂の根底や原因的根を見届けられるようになり、心魂の在り様の僅かの変化であってもそれが御父母様に繋がった新生自分から来たものだと認識できる。私達は祈祷を通して、原理用語を並べてみたり、御父様や感謝の言葉を連呼してみたりと、それも祈りと言えば祈りなのかも知れないが、祈祷として神様と会話するというなら、愛と生命と血統の根、さらに良心の根という神様であられるから、心魂の奥の深みまで意識を下ろしていくことで祈祷が会話となり得る。そういう祈祷を学んだ者だけが実体み言としての御父様の本質により近付くことができ、聖霊実体としての御母様の本質により近付いていける。そうしてそういう祈祷が為せる基盤としての感情生活、祈祷基盤としての思考生活を通して祈祷基盤ができる。神様が親しく臨在される至聖所に入るには先ず聖所に入らなければならず、いきなり祈祷という至聖所に入ろうとしても神様と会話できるわけではない。御父様に促されて皆の前に立たれる御母様は、必ずと言っていいほど涙を流された。摂理に向かわれる今の御母様は御父様の姿を前面に立てておられるけれども、御母様の本質、実体聖霊の本質はあの涙される御母様の中にある。祈祷の深みに於いて出会う御母様は涙そのものだ。御母様の涙は犠牲の涙だ。

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