2014年4月12日土曜日

今日の想い 722

妻は骨粗鬆症で背骨を痛め、私はと言うと店で背骨を痛めた。積み上げたものを踏み台にして、棚の上のものを取ろうとしたら踏み台が崩れて、体制を崩して背骨を痛めた。実はその事故は昨年の暮れの事故なのだが、その時は一日や二日で痛みは治まったにもかかわらず、今になって症状が再度出てきた。背骨は体の中心でありまさしく屋台骨だ。中心を二人とも痛めたということが実に意味深だ。毎日の業務に支障が出るので何とか回復せねばと焦ってはいるが、シャープな痛みではないにしても常に鈍痛があり、頭を後ろに引こうとする度に痛みが走り、なかなか時間が解決してくれそうにはない。妻は常に何処かの不調を訴えているから起こる一つ一つに対して内的意味を問おうとはしないが、私はと言うと清平の修練会以来健康そのものだったので、余計にこの痛みの意味を問おうとする。堕落性が人一倍強いし抱えている蕩減内容も多いので、いつも忘れた頃に大きな懸案事項が起こってきた。一人の時は個人的な懸案で済んでいたものが、家庭を持てば人数にも応じて、あるいは家庭全体としても懸案事項は増えるし、さらに店の責任者ともなれば従業員数にも応じて、さらに店の運営の問題も含めて懸案事項は更に増える。そして起こる時には連鎖するようにまとめて起こったりする。個人の懸案が家庭の懸案にもリンクし、家庭の懸案が店の懸案にもリンクするという、次元の異なる事柄が抜け穴があって繋がっているのか、地上界という面に投射された現実は解決の糸口が見つからないほどの困難な様相を示す。さらには摂理の一端を担い歩むという個人個人の代表的立場、いろんな家庭の代表的家庭、そしていろんな世界の代表的社会として店なり会社なりが立っているから、そんな全てを含んだ現実の事柄に対して詳細に意味を問うことは不可能に近いだろう。それでも複雑極まりない事情圏環境圏に生きて前進しなければ希望は見出せないので、微かであって見え隠れする良心の声を聞きながら、良心の声こそが生きて歩む羅針盤であってそれを頼りに進む以外ない。地上に生きて外的には明るい日の光の中で進んでいるのは確かだけれども、霊的心魂的に見るなら暗雲の中を進んでいる。鈍い霊的感性でも働かせれば、今はまさしく三日の暗黒期間の中で航海していることがわかる。三日は象徴的であってそれが三年かもわからない。とにかく霊的に見れば周囲が真っ暗な状態であることだけは確かだ。霊的無知な私達にとって、暗闇が去って開ける世界がどんなものかはわからないにしても、確実にそこに希望があることだけは感じている。アブラハムの悩んだ三日間であり、モーセのエジプト全土の三日の暗闇の禍であり、イエス様が天に上げられて三時間の暗闇が覆ったのと同じだ。妻も私も暗闇のこの期間に背骨を痛めた。蕩減であるけれども出発の為の摂理でもあると取るべきだろう。勿論それは多くの山積みされた困難のうちの一つに過ぎないが、一つ一つ現実の問題をこなしながら私の全体的蕩減と全体的出発の為の摂理のブロックが積み上げられていく。

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