2014年4月20日日曜日

今日の想い 725

教会内でもそうだろうけれども、摂理的ビジネスに於いても同じように根拠のない楽観がまかり通っている。今の今まで失敗に次ぐ失敗を続けてきて、為し得ないままの摂理の数々が置き去りにされたまま、倒れた墓石のように累々と横たわっていると言うのに、にも拘わらず楽観がまかり通っている。それにも関わらず新しい摂理だと、未だに責任者は声高に全体の気分を盛り上げようとする。本当は悲観に溢れて、心魂は悲観で雁字搦めにされたまま何の現実的戦略も出せないままなのに、それでも表面的気分だけは盛り上げようとする。楽観が勝敗を決めるという信仰を持ち続けていて、楽観と責任感情の違いを理解していないように思える。今の今まで一向に学習しない食口は、天にとってはそれはそれで貴重な存在なのだろうか。確かに通常の感覚の持ち主なら、いい加減先ず離れるなり距離を置いて俯瞰するだろう。歯車になっているか内側にだけ居続ければ全体は見えず、問題解決の糸口さえ掴めない。それでも歯車で居続けること、内側に居続けることが信仰の基本であり、そこを離れれば「堕ちた」とレッテルを貼られて摂理から外される。摂理から外されることはあっても、私のみ旨はみ旨で進んでいくのであって、「堕ちた」というのは日本的であり村八分的な言い方だ。そんな感覚はここアメリカであっても同じで、日本食口であり日本人村(個団?)に属する限りはその意識の枷に嵌められて続いて行く。80年前後にアメリカに来て、アメリカ開拓当初から歩んでいる食口の中には日本人であることを否定し、個団を無視して歩んでいる者もいるけれども、それならそれでこのアメリカの摂理の責任を明確に引き受けるべきだろう。日本人の片鱗すらも匂わせないで、アメリカ摂理に対する言い逃れを誰にでも、自分にさえも見せるべきではない。自分は日本人だからという言い訳の僅かも許さず、アメリカ摂理に対する甘えも逃げも完全に払拭すべきだ。どんな立場を取る食口であっても、誰にも何処にも勝利の突破口を切り開く天の勇士は見当たらない。御父様の聖和を越え基元節を越えながら、この期に及んでの楽観は無責任と同意語だ。本当は無理だという悲観に暮れながら楽観を装うのは無責任だ。御母様はそれでも、2020年までは食口を信じ、摂理を託して行かれることを明言された。御母様が地上に居られる間に必ず御父様の願いを果たすと約束された一方で、不甲斐ない、責任感情すら忘れてしまった私達を信じて託さなければならない、その狭間でどう胆を決められたのだろうか。結果を出せないことに尽く慣れてしまった一世、それは戦わずして居続けることに慣れてしまったという事と全く同じで、私達一世は荒野で朽ちて逝ったモーセ率いる初期のイスラエル民族と同じように、カナンの福地を前にして消え去るしかないのだろうか。私達の蕩減、生きた御父様に侍るという千年を濃縮した時間を適当に遣り過ごしてしまった蕩減は、決して軽いものだとは思わない。私は霊界に行って、地獄の苦しみを味わう以上に御父様にお会いするその瞬間が恐ろしい。

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