2014年4月7日月曜日

今日の想い 719(絶対性)

良心を考えてみると、自分の隣で飢えて死んでいく人がいれば自分の良心は痛むだろう。しかし世界の片隅で飢えて死んでいく人がいるにも拘わらず、そこに良心の痛みは差ほどない。それは堕落人間だからそうなのか、創造本性の人間は違うのか。もし世界の飢餓の実情を事細かに教えられるなら、より実感を伴うことで良心の痛みが感じられるはずだ。ある者は飢餓の実情を知って募金に勤しみ、ある者は飢餓の実情を知らずに誰かに強制されて募金をし、そしてある者は何かの罪の意識に良心の負債を覚えて、飢餓の実情は知らないまでも募金する、この三者がいるとする。この三者の募金は同じ行為と言えるだろうか。地上での行為は同じでも霊的な意味合いが異なっている。要するに動機が異なっているということだ。私達はこの動機を重要視すべきであって、行為自体を重要視するなら教条的になってしまう。ここで信仰生命上最も重要な問題を考えてみると、絶対性ということに関してはどう捉えるべきかという問題がある。初愛を結んだ二人が一生を添い遂げ、更には霊界でも永遠に二人一体であるべきだが、二人が問題を起こさず夫婦でいるという、その動機がどうあろうと、間違いを犯さなければそれは絶対性と言えるのかどうか。つまり離婚も浮気もせず一緒にいれば絶対性と言えるのかどうか。普通の食口であれば絶対性と言われなくてもそれは当然だろうし、さらに夫婦間であっても肉欲(性欲)が主体でそれが動機で関係を持つなら絶対性と言えるのかどうかという疑問もある。動機という観点から考えて、絶対性と言われたから離婚も浮気もしないと決め、絶対性と言われたからどちらかが先立っても他とは契りは結ばないと言うなら、動機として為に生きる性や犠牲的性ではなく、教条的戒律的なものが主体になっているとは言えないだろうか。御父様から直接にマッチングされた夫婦は、相手への不満があるとしても、組み合わせて下さった御父様の愛を裏切りたくないという動機であったり、子供への配慮からまじめな夫婦で居続ける。しかしそれもまた絶対愛であり絶対性なのかというと疑問が残る。では動機が重要なら動機を正すという言葉があるように、正されれば肉欲の関係する性も絶対性により近づけるとは言えないだろうか。絶対信仰と言われても信仰が揺らぐ場面も多々ある訳で、そうなると信仰が絶対的なものかと問われてはいそうですと言える人は一人もいないだろう。絶対信仰が難しいのに絶対信仰を標榜するのはそう願われているからと言う以外にない。だから絶対という冠を付けられても、絶対が今が今では絶対的に難しい堕落的人間にとっては、そう願われているから動機を正しながら絶対的なものに近付けていくという選択肢しかないと思っている。絶対性についても同じで、夫婦間であっても性行為が絶対性に根差したものなのかどうかは動機をして問われるのであり、形や教条的戒律的なもので絶対性かどうかのすみ分け等できない。現実を言うなら御父様御自身が教条的戒律的な意味での絶対性とは言えない。しかし御父様から絶対性の概念が生み出されたのだから、絶対性は教条的戒律的なものではないと言うことができる。

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