2014年4月30日水曜日
しあわせのうた
目の前の現実の波に飲まれて、挫けそうで心はへとへとなのに、追い討ちをかけるようにさらに残酷な現実の大波が襲いかかる。心はひとたまりもない。夫婦一体船は、左舷である妻を病という大波で叩き付けられるという、いつ終るとも知れないウネリの魔界域を航行しているようだ。再度移植の連絡が来て、手術も成功して、妻もやっとこれで人並みな健康生活が送れると喜んでいた。しかしそれは瞬く間の喜びだった。長く期待もして来て、そして事実手にもして、しかしやっと手にしたと思われたものを奪い去られていく。だったらどうして期待させ、更に奪うことを前提として手にもさせたのかと、妻は裏切られたその怒りと悲しみで逆上した。このまま何もせずに死んでいくとまで口にした。私は言葉が出なかった。冷めた蛍光灯の光で、頼りなげに浮かび上がったベッドの上で、妻は表情を強張らせていた。見開いた目から部屋の隅々へ強い視線を照射していて、奪った犯人を捜しているかのようだった。私はベッドの横のパイプ椅子に座り、俯いたまま時間は流れていった。ベッドの柵だけを凝視しながら時間は流れていった。体は極端に強張っていたし、両手こぶしは膝の上で強く握り締めていた。怒り以上に悲しかった。ただただ悲しかった。その悲しみは何もしてやれない苛立ちでもあり、終ることのない試練への疲れでもあり、執拗に痛め付けられる運命への恨みでもあり、そんな苦い味わいの感情の数々が入り混じった悲しみだった。そうしてやっと口を開くと、元気付けるでもない叱咤の言葉を浴びせて勝手に悲しみをぶつけた。そして涙が止め処もなく流れた。隠そうにも隠し切れずにいると、しかしその私の動揺に虚を付かれたのか、自分の感情だけに意識を向けていたのが夫である私に向き直った。二人一緒に暫く悲しみに沈んだ。そして私はその瞬間を幸せだと思った。悲しみに暮れながらも幸せだと思った。喜び楽しいことが幸せなのではなく、二人一緒に喜怒哀楽を味わうことが幸せだと思った。たとえ明日をも知れない命であっても、喜怒哀楽を通しながらも喜怒哀楽を越えて一体感を覚えたものは、霊的精神的領域に届く本質的な幸せだ。その夫婦にとってそれは唯一であり、絶対であり、永遠なしあわせだ。二人で味わう喜びの涙も「しあわせのうた」だけれども、二人で味わう悲しみの涙も「しあわせのうた」だ。悲しみの中で「しあわせのうた」を歌い、「しあわせのおどり」を踊る。
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