2014年4月19日土曜日

愛と心情

より愛する者を犠牲にして全体を救う摂理を展開される。神様に愛されれば全てを相続し所有して当然のように思えるが、犠牲にするとは取り去って捧げることだから、相続どころか愛されているのに所有しているものさえも奪われると言うことだ。愛は与えて忘れなさいと言われたけれども、与えたことを忘れなければならない愛の事情があり、与えた愛に対して受け取るものを期待すれば愛が愛として成り立たないということだろう。愛の摂理は愛し愛される者の枠組みを決めてしまえば、そこに犠牲という概念が入ることは無いのかも知れない。しかし救いの摂理となると個人、家庭、氏族と範囲を広げて救いの摂理を展開するのは当然だから、犠牲という概念が入らざるを得ない。氏族の救いは家庭の愛を犠牲にし、国の救いは氏族の愛を犠牲にし、世界の救いは国の愛を犠牲にしている。救いの摂理を展開する為には愛の次元を上げなければ、すなわちより大きな犠牲を払うことを覚悟しなければならないのであり、愛は核だけれども心情は中心だというみ言葉は、心情を中心としなければある次元の愛が核となり、その核が中心となってしまえば救いの摂理は展開されない。愛の次元を上げる為には心情が中心とならなければならないのであり、その意味でも愛の神様である以上に心情の神様だと言うことができる。神様御自身も自身の犠牲を受け入れ、愛する者達の犠牲でさえも受け入れるのは、神様の御心情故だと言える。私達はこれを奪われたあれを奪われたと、そこには神様が振り向いてくれない愛の減少感を覚え、減少感からさらに恨みを覚えるほどに愛の試練に翻弄される訳だけれども、心情の概念は犠牲をして学ぶのであり、さらに綺麗に打たれて捧げればそこには必ず神様の御心情が流れてくる。打たれて奪われてぼろぼろになりながらも、そんな立場で神様を慰めれば瞬時にして神様が私の中に訪ねて来られるのであり、愛の神様である以上に胸の内の心を開かれる心情の神様であり、心情に於ける神様との一体圏こそがお前は私の息子だと神様にかき抱かれる実感であり事実だ。

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