2014年9月29日月曜日

今日の想い 793 (氏族復帰)

今まで様々な摂理が打ち出されてきて、その度にその中心的摂理に心身を投入してきたわけだが、ある摂理から次の摂理が出されると新しい摂理に皆が皆、全ての意識が移ってしまって、過去の摂理はその完成を見ることなくうやむやになってしまう。先天時代はそれでもサタンと交わる一線上で駆け引きがあり、御父様の号令のままに動じ静じて、それが条件物なり条件期間なりの蕩減的なものがあったからそれでも善しとされた。しかしあまりにも摂理の動きが激しく、その摂理的意義もわからずに取り敢えず着いて行ったものだから、勝利的実績を残さずに転々とすることに堕してしまった感がある。何も勝利していないのに兎に角ここまで着いてこれた、というところだろうか。しかし、これからは任されて私達の自由意志に委ねられれば、結果を残す責任も当然問われるわけで、結果は残していませんがそれでも何とか着いてきましたという報告は報告とは言えないだろう。氏族メシヤとしての責任を背負っている。やれ献金摂理だ、やれホームチャーチだ、訓読教会だスモールグループ活動だとそれぞれ鼻は突っ込んだがどれひとつ形にはなっていない。その延長線上に氏族復帰があって過去の摂理と同じように活動するものだと思っているけれども、延長線上に氏族復帰はないし、鼻を突っ込んだだけでやはりうまくいきませんでしたという事にはならない。是が非でも為し遂げなければならない私と私の家庭の宿命的責任が氏族復帰だ。氏族は私そのものであり、氏族の存在や存続と、私と私の家庭の存在や存続は同じだという感覚だ。それを思って寝るに寝れないほどの切実さを感じているだろうか。私がやらないなら血統圏の誰かがやらなければならない宿命的なものだ。だから氏族復帰に対しては、今までのように鼻を突っ込むような姿勢では埒が明かない。下手に氏族復帰活動だと称して見え透いた署名や献金要請ではかえって距離を置かれてしまうだろうし、人格も社会的地位もない者が詰め寄っても、氏族にとってみれば得体の知れない布教活動に過ぎないのであって当然引かれてしまうだろう。統一教会に繋げる直球が難しいとなるとどうすればよいのだろうか。分派が一生懸命食口に接触して感化させようとするけれども、もし食口に向かうのではなく自分の氏族に向かい氏族を感化できるなら、それは分派ではなく氏族復帰活動になるかも知れない。直球が難しいと言うことになると、一端引いて、方便を使うことによる氏族復帰二次摂理の完成を目論まなければならないだろう。しかし頂上に向かう経路をどう取るにしても、私のいる事情圏、環境圏をすべて捨ててその道に、というのは果たして得策だろうか。すべての道は実は事情圏、環境圏の中から導き出せるのではないだろうか。抱えている事情圏、環境圏は氏族復帰基台摂理であるかも知れない。

2014年9月28日日曜日

今日の想い 792

私達が一生懸命み言葉を伝えようとしても、相手にしてみるなら私達はその理想を簡単に成し遂げられるかのような錯覚に陥っているように見えたはずで、人間の正体を理解している彼等にとっては確かに浮いた世間知らずの存在であり、地に足がついていないかのような存在だったはずだ。復帰された食口にも二通りあって、余程信仰的背景があるか、あるいは純粋で単純かの二通りだった。ほとんどは純粋単純で、世間知らずなこの群れにこの世界を復帰するなど当然覚束ないはずだとサタンは踏んでいたから、私達に対する霊的な所有をサタンは口にしなかった。だからこの道に足を踏み入れることができた訳で、しかし歩む道のりの途中で流石に実態を思い知るようになる。それは私自身の実態でもあるしこの世の実態でもある。すなわち現実に引き摺り下ろされて夢から覚める。それからが本当の信仰路程の出発だ。私達がこの地上で生活している以上、そして堕落社会から完全に隔離されては生活できない以上、生活を通して堕落的要素は入り込んでいるのであり、それは身体的なものというより心魂的に堕落的影響を受けている、というかそれなしには生活は成り立たないとも言える。しかし心魂のどの辺りまで影響を許すかによって霊への影響を断ち切ることはできる。私達の霊肉の戦いはこの心魂のステージで繰り広げられている。霊の認識の乏しい者はみ言葉を霊的なものとして捉えることができず、認識できる心魂にのみ影響を及ぼすみ言葉としか捉えられない。そうなると言葉の枷に嵌められて御父様が言った言わないの論理に終始したり、あるいは人倫道徳の基準でしか物事を見ないようになるが、そうなると山羊族である人間的な存在に留まり、羊族である霊的な、更には神霊的な存在にはなれない。食口に於いても、山羊族は肉的な、或いは心魂的な罪を犯したかどうかしか見ないが、羊族は霊的な罪を犯すのかどうかを重要視して霊的に受け取ったものを守ろうとする。大方の反対派の言い分は指示の政治的関与であるとか、金の流れの政治的関与で食口を搾取しているかのように口にするが、それは誰が責任者になるとしてもあり得る訳で、その背後にどのような霊的背景があり、御父母様がどう霊的支柱を立てられようとしているのかを見ない限り人間的判断では誤ってしまう。純粋単純な食口の在り様からは随分利口になったことは確かだが、霊的な事柄を見抜ける者になれたかそれとも心魂の次元に留まっているのかが羊と山羊の分かれ目だ。人間的には灰汁(あく)の強い者達が責任者として立ち、人間性までも無視するような、それを自己否定と認識させて統一の群れの前進的役割を果たしてきたのは事実だろう。御父様が蕩減の時代は終わったという意味は個々人に於いてはどう当て嵌まるのだろうと考えてみたが、知的観点で言えば盲信的だった全体から個々がそれぞれ認識して確信するものに変わったと思う。中心者がカラスは白だと言えば総じて白とした観点から、それぞれがカラスは本当に白なのか、さらにはどうして白だと言われたのかという観点に立つことができるようになった。人間としての地上の力量がそれぞれでどれほどの違いがあるのだろうかと考えてみると、さして大きな違いは見出せない。それでも世界を動かす位置に立つ人間が確実にいる訳で、そこには持っている霊的背景と世界を把握する存在(かつてはサタンを頭に置く霊的連合だった)がどう地上に支柱を立てようとしているかという霊的なものに依っている。世界の潮流は確実に見えない存在が選ばれし人間をして先導している。これからの選ばれし人間は確実に天の認可を受けるようになる。御父母様の勝利圏が確立した今は、見えない霊的潮流は世界統一に向かってその流れを時間を追うごとに速めている。御父様がサタンの霊的連合に代わって霊界の指令本部から直接に指示を出し、天の密使として活動している存在がいる。一方ではその天の密使が活動し、一方では御父母様の願いを引き受けた氏族メシヤ達が底上げ活動を為している。もし底上げ活動が天の願いに応えられずに頓挫するならば、実体的天一国、そして世界復帰は天の密使の活動だけに依るハードランディングとなるだろう。しかしそこには測り知れない犠牲を供えることになる。この2020年までの7年の猶予期間で氏族復帰による底上げ活動によって為そうと決意されるのが御母様だが、御母様の願いをどれ程に深刻に受け止めている私達だろうか。

今日の想い 791

男性にとって原理原則をまもることがどれほど大変か、女性には先ずわかるまい。創世当時は女性はひとりでも堕落が起こったけれども、現代は数多の女性がまわりにいて男性にとってどれほど大変かという御話を御父様はされている。本然の男性であれば相対者以外は何も感じないし惹かれることはないと、女性食口だけではなく男性食口の多くも思っているようだけれども、堕落した存在だからいろんな女性に惹かれるのではなく男性だから惹かれる、というのが実は正しいと思っている。男性から言って、まちがいも犯さず妻と添い遂げたと言える夫婦は二通りある。それはこの世でも同じだと思うが、男性が原理原則をまもるために弛まぬ努力に努力を重ねてきたか、あるいは男性が全くの甲斐性なしかの二通りだ。食口の場合甲斐性なし、すなわち男としての魅力に欠けるかあるいは生きる密度が薄く欲望が欠如している者が結構多かった。しかし地上の力とは望みを手にしたいという欲望だ。私達は異性に向かう欲望を色情因縁の一言で納得してしまい、異性に向かうベクトルの全てを罪として片付けてしまうけれども、その欲望そのものが悪ではない。どう主管するかであって、主管することと抑え込むこととは異なる。抑え込めば抑え込むほどに欲望があらぬ方向に爆発してしまう。主管するとは力の原理をして主管するのではなく、愛をして主管する。それは私自身の問題においても同じであって、欲望を抑え込むのではなく昇華させることが愛をして主管することだ。肉欲、感覚欲は肉と感覚の次元に留まる限りは主管などおぼつかない。偽りの愛の関係で堕落が起こったその場所には神様の言い知れぬ悲しみの心情が今なお息衝いている。海に沈んで亡くなった子供の無念を親として昇華できず、美しい海を見ることにさえ強烈な心痛を覚えて普通には見れないように、神様にとっては今なお愛の器官である生殖器に対して苦しいほどの心痛を覚えられる。もっとも精魂を傾けて創造された生殖器が、もっとも忌まわしい部位となってしまった。私達はその神様の痛みの心情を開放する責任がある。神様の心情を尋ねる私を用意して初めて肉と感覚の次元の縛りから解かれていく。フリーセックスをよしとするような性の氾濫はもう抑えが全く効かない。ネットという媒体を通してもあらゆる欲望を刺激している。泥沼の中から真っ白な蓮の花が咲くように、氾濫した中から真の性が見出されると私は思っている。この言い方を誤解してほしくないのだが、真の性は真の愛からの全く新しい性の在り方であり、形は同じであっても既存の性に見る印象を寄せ付けない。私達は聖酒を戴く聖酒式に参加したけれども、教会で禁じている酒をもっとも神聖な儀式に使用される意味を考えなければならない。性に対しても同じであって、教会生活ではあれほどに見るな触れるな食べるなと禁じている性をして三日儀式が為される。そのものが悪ではなく、どう用いるかによって善にもなり悪にもなるということだ。形は同じでも形の中身、霊の部分が異なる。酒呑みが酒を断てないのは酔う味を肉体が覚えたからであり、堕落人間が性を断てないのも生命体が酔う味を知っているからだ。そのように本然の人間であれば神様との関係を断つことはできない。それは自分の霊が真の愛に酔う味を知っているからだ。本然の人間は真の愛に酔って生きる。そうすると私の霊が真の愛に目覚めている度合いに応じて性を主管できるだろう。最初の確認をすると、プラスである男性にとってマイナスである女性へのベクトルが働くのは当然であり、であるならその衝動のままに行動すればいいのかと言うとそうではなく、それは霊の破壊であってその横的なる衝動をどうすることで神様へ向かう縦的な私を用意することができるかを問わなければならない。真の愛に酔うことを覚えた人間は堕落しない。酒も性も我慢して抑え込むのではなく「主管」する。

2014年9月24日水曜日

今日の想い 790

人間が本然の人間として心身一体圏に立てば一柱の良神として立つ。私が本来一柱の良神(心)であるように、相対もまた一柱の良神(心)だ。アダムが男性神として立ち、さらに父神として立つべきであったように、エバは女性神として立ち、さらに母神として立つべきだった。そうであればカインもまた一柱の良神であり、アベルもそうだ。カインは石工(科学技術)の神として立つべき存在であったし、アベルは祭祀の神として立つべき存在だった。セツはセツでまたアベルカインの繋ぎとなる触媒を果たすべき一柱の神として立つべき存在だった。おそらくこんな話、幻覚と妄想に取り付かれた話にはついていけないと、食口であってもそうなるはずだ。推測の域を出ていない話なのでそう思われても仕方がない。人間が位相を高めていき、その人間の中に神を宿し神をみる存在になるということ、それは父は子に対しては父以上の存在になってくれることが願いであるなら、神の位相に立つ、即ち神的存在になってこそ神様と人間が父子関係であるとは言えないだろうか。それが良心のある人間ひとりひとりは一柱の良神になり得ると言える私の根拠だ。御父様は、堕落はアダムエバの堕落のみならず、カインアベルセツそれぞれの相対を含めた8人家族の堕落だと話された。その意味を何度も何度も尋ねてみて輪郭を持ってきたのが、8人家族のうちの一組でも他の犯した罪を収拾できたなら堕落の血統圏は形成されなかったのではないかという推測だ。カインがアベルを殺害したという事実が堕落を決定的なものにしたと言われたように、神からの三代圏を通して堕落が決定的になったから、三代圏を通して復帰されなければならない。三代圏の復帰が私を起点とする三代が信仰を持ち、堕落せず、祝福を受けることと認識しているけれども、果たしてそうだろうか。さらには信仰があるないの基準、堕落したしていないの基準、祝福を受けた受けていないの明確な基準が果たして私達の中にあるのだろうか。それは条件的なものに過ぎないとは言えないだろうか。おそらく多くの食口の三代圏の完成に対する認識は条件的なものに留まっており、御父様の三代圏の完成の概念とは異なると私は思っている。責任分担という概念の中にそうあるべきだという教条的観念が必要条件としてあるなら、それは責任分担ではなく条件的枷以外の何物でもないと思うのだがどうだろうか。条件の枷と自由性とは相容れない。神様が善悪を定める神様、天国と地獄に振り分ける神様ではなく、父なる神様でありさらには心情の神様であられることを知ったのは私達に取って福音中の福音だ。条件至上主義の神様であるなら私なぞとっくに淘汰されて消え失せている。科学はカインの申し子だ。神に為りそびれたカインの繁栄を現代の科学文明に見ている。宗教はアベルの申し子だ。カインに殺された無念の叫びを科学文明に追い遣られる宗教として現代に見ている。思想はセツの申し子だ。科学と宗教の共存を現代の中に夢見ている。人類はアダム家庭という8人家族の展開だ。祝福家庭達は統一家として真の家庭の展開だ。人類始祖アダムとエバが堕落しなかったならばアダムとエバは人類の真の父母として子々孫々にまで君臨したはずだ。カインアベルセツも天使長ならぬ種族長としてやはり子々孫々にまで君臨しただろう。御父様は入籍に伴って支派編成が為されることを語られている。12支派が編成されて種族長(?)を中心に子々孫々まで12の統一文化を花咲かせる。将来的に心身一体圏を為して良心の意のままに生きる良神的存在になれば、人間の意識は神様を求める在り様から神様共にあって意志疎通する在り様へと変わる。

2014年9月22日月曜日

今日の想い 789

妻の治療が早目に終わった。いつもの帰り道であるボルチモアからDCへ向かうルート95を南下していたが、アナポリスのサインが目に入ったので車線を左に寄せて妻に尋ねてみた。少しは気分転換にドライブがてら足を延ばすのはどうかと聞くと、彼女も同意してくれたのでそのまま分岐点を左にとり、一路アナポリスに向かった。何度か昔訪れたことはあるけれどもここ数年は海さえ見ていない。半時間も走らせると目的地付近にもう着いたらしく、こんなに近かっただろうかと首を傾げたが、ボルチモアから向かったからだと気がついた。メリーランド州はDCにお椀を被せるようにまたがっているので私の住んでいる場所から向かうとDCを避けるようにして環状線を大きく半周しなければならない。その感覚があったからそう感じた。かつてはイギリスの植民地であったこの町は、小洒落たヨットハーバーがあって、そこから州議事堂への通り沿いに店が立ち並び、その界隈は当時の植民地時代の面影がそのまま残っている。妻は歩くことも大変なので散策とまではいかないが、ハーバーのベンチに暫く腰かけ、ヨットの浮かんでいる内海を言葉もなく眺めた。白い綿雲が空高く所々に散っている。9月も終盤に入ると流石に陽の強さも弱まり、8月の暑さも遠ざかって心地よい秋の潮風が顔を撫でる。暫くして最初に妻が口を開いた。ここに来たことがあるかという問いだった。この街には何度か来たことはあるけれども、実はこのハーバーに来たことはない。そんな説明も面倒くさく、一言あるよと頷いて見せた。信仰的な会話以外の生活会話はいつも妻が喋る担当で、私は頷くか首を振るだけだ。数年前に来たときはまだ小さかった二人の子供達と一緒だった。ずっと不愛想なのも悪いので、せめてそんなことでも付け加えようと思ったところに、そういえば子供と一緒にアナポリスの海軍兵学校を見学に来たことがあったと妻が口にした。それで結局また私は頷くだけで不愛想に無口なままだった。日本人夫婦なのでこれでもいいのだろうが、国際祝福で国民性が異なるとそうはいかない。チェサピーク湾の内海で海面はおとなしい。柔らかい日差しが水面に反射して、宝石でもばらまいたようにきらきら輝いている。店からの連絡もなく、先ほど医者に告げられた治療状況も今の今は考えず、静かな海を妻と二人で見続けている今のこの事実だけで内面を満たせば、この瞬間は天国だ。二人だけの天国だ。若い二人なら向かい合って見つめ合ったりするのだろうが、二人三脚で歩んできてそんな必要はない。すでに二人はひとつなのに敢えて向かい合う必要もないしお互いを理解する言葉もいらない。二人で海を静かに見つめていればそれが二人の会話だ。しかし天国から現実に唐突に引き戻される。陽が上ってきて顔が日焼けするからと、妻は駐車している車へ向かうために立ち上がった。

2014年9月21日日曜日

今日の想い 788

御父様に直接にお会いした最後もラスベガスであったし、御聖和の後、御母様に直接にお会いした最初もラスベガスだった。私は御聖和、基元節を中心に前後して御父母様に挟まれている。過去と未来の橋渡しが現在であるように、御父様と御母様の橋渡しとして私がいる。もし私がこけるなら私を中心とした摂理は失敗する。私が御父母様一体圏の私として立つなら、私を中心とした摂理は必ず成し遂げられる。既に一体圏に立っておられる御父様という実体み言と御母様という聖霊実体の一体圏内に私が入ることができれば、天宙的勝利圏が私という現在に現れる。私は御父様の何を相続した位置に立っているのだろうか。私は御母様から何を受けている位置に立っているのだろうか。私を中心とした摂理を考えた時、過去の私は願いを相続する為にひたすらついて行き、引き挙げられようとして御父様を見上げていた。では御聖和以降の私は御父様に代わる御母様として、同じようにひたすらついて行き、引き上げられる為の御母様を見上げるのだろうか。聖和式のとき御母様が最も強調されたことは、歩みを止めずに前進し続けなさいということだった。それは私を中心とする摂理が、私をして為されるべき御父様の願いを相続した位置で、相続したその願いを捨てずにそれを成就すべく前進しなさいということではないだろうか。御父様が御聖和されたのだからこれからは御母様について行きなさいとは話されなかった。もちろん、だからといって好き勝手に歩めばいいというような稚拙な誤解には至らない。聖霊実体である御母様は、私が御父様の願いに立っているなら確実に共におられて聖霊の役事を引き受けられるはずだ。御父様の願いに立てば立つほどにその役事を事情圏環境圏に見るはずだ。それは御父様の願いを相続していることが先ず重要であり、私が摂理に対してどれだけ切実であるかということが問われている。だから摂理に対する切実感を強めていく私にならなければならない。この私に一体何ができるでしょうかと嘆いているかぎり、未だ御父様の願いを相続しているとは言えないだろう。ひたすら責任を回避しようと逃げ回っているにすぎない。私は願いを受けた位置で本当に切実だろうか。痛いほどに切実であられる御父母様であるのに、余生を大事なく、大罪を犯すことなく、み前に出た時言い訳できる程度に生活していればそれでいいのだろうか。負債さえ覚えなければそれで善しとするのだろうか。私が最も自覚しなければならないことは摂理に対する切実感だ。願われて託された私のみ旨、そして氏族復帰に対する切実感だ。その切実感があることが私の中に御父母様を迎えているとも言える。

2014年9月20日土曜日

祝福、そして入籍

地上人間にとって祝福が霊肉の救いであることはその通りだけれども、祝福を戴ければそれでよしとそこに留まるのではなく、私を中心として展開する外的地上的な救済圏を広げ、霊肉共の完全なる救いを得なければ地上天上天国の住人にはなれない。創造の道理は外的環境が用意されてより内的なものが環境の中に立てられた。人間の創造も体を先に造っておいてから霊を吹き入れた。その道理でいくと、内的霊的救いが救いとして立つ為には外的地上的救いが基盤となることがわかる。ここで考えなければならないのは、私達の最重要キイワードだった「祝福」から更なる重要なキイワードが呈示されたことだ。それが何かというと「入籍」という言葉だ。どこに入籍するかというと「天の国の生命録(生命の書)に入籍」とある。「祝福を受けることは入籍することではなく、象徴的入籍」とあるから、象徴があるなら形象があり、さらには実体的入籍があることがわかる。形象的入籍とは何で実体的入籍とは何か。多くの食口達にとって、祝福というキイワードには敏感であり反応するけれども、入籍というキイワードは現実味に欠け、私とどう関係があるのだろうかと思っているのが実情だ。氏族メシヤ、氏族復帰という概念に対しては祝福止まりではさして重要性を覚えず、入籍が念頭にあってこそその重要性を肌で感じるようになる。「祝福を受けた家庭は条件的完成圏内にしか立たず、霊界に行ったら異なる手続きが必要になり、その手続きを済ませて完成的完成をしたと言えば通行券をもらって天国に入る」、と御父様が言われたように実に具体的だ。氏族復帰に関しては「入籍時代が来ても氏族復帰ができていない人はここに入籍することはできません。」とあり、入籍の為には氏族復帰、氏族復帰は氏族メシヤとして立つこと(宣言すること)を氏族が先ず受け入れることで成り立つ。氏族復帰は氏族メシヤ宣言がされていなかったらその入り口にも立っていないということだ。祝福は戴いて受けるという受動的であるけれども、入籍は自分が氏族メシヤとして立ち自分が氏族復帰を推し進めるという能動的位置に立たなければ為し得ない。祝福が全てだと祝福の価値もわからずに祝福に留まり観念的なままでいるけれども、入籍となると実に具体的、実体的にならざるを得ないのではないだろうか。今回残っておられた御子女様御二方が祝福を受けられたけれども、それに対してどうのこうの言う者にかぎって氏族復帰への意識はなく、氏族メシヤの自覚もなく、よって「入籍」というキイワードを自己流の祝福観念に囚われたまま見出せないでいる。そういう自分はわかっているかと言うとわかっていない訳だが、少なくとも「入籍」という意味が「祝福」にも増して重要な意味を持っている、或いは「入籍」なくしては祝福も完成とはならないという感覚は持っているつもりだ。

2014年9月19日金曜日

今日の想い 787 (御子女様の祝福)

反対を呈する者、批判を口にする者は、自分の中に正しい判断基準が立っていてそうしていると信じて疑わないが、実は判断基準を宛がおうとするその動機には反感の感情が渦巻いていることを自覚していない。自分の中の感情が反対させ批判を口にさせている。その感情は堕落的私の感情だ。私を救って下さる御父母様だという信仰のない者が、祝福は御父母様によって定義されるものであるのにも拘わらず、その祝福に対しておかしいとか自分の論理を展開して批判するのは全くのお門違いだ。さらに信仰のない者の言葉に触発されて批判してしまう食口は、祝福の価値のわからない者の言葉を受け入れて御父母様から戴いた祝福を貶めている。御父母様の祝福による救いは先ず霊の救いであって、自分が霊の存在だという霊の認識のない者、間違った霊の認識を抱いている者、罪の認識がなく救いを求めていない者は、霊の救いではなく心魂の平安を求めていてそれが救いだと信じている。よって心魂の平安に波風立てる状況になると、祝福は御父母様によって戴くものでありながらも自分なりの祝福に対する価値観、霊の救いを無視した価値観を抱けば、それは御父母様の祝福を否定してしまっている。御父母様への不信と同時に御父母様から戴いた祝福は形骸化してしまい中身は既に無い。祝福は一方では厳しい御父様の条件の枷を嵌められてそれに適った者が祝福を戴いた。しかし一方で祝福の世界化、天宙化が願われてきて受ける条件は無いに等しい状態の者にも祝福を分け与えた。極みはキャンディー祝福で、意味もわからず本人の自覚もなくただ手にして舐めるという条件で祝福を戴いている。さらに聖賢達と殺人鬼という極と極を祝福されており、よって個人から天宙までの横的全ての段階、殺人鬼という畜生以下から霊的高みまでの縦的全ての段階を祝福圏内に抱合しておられる。全ての存在を祝福圏内に抱合されたということと、全ての存在が祝福を受けたということとは異なるのであり、圏内として可能ではあるけれども受けるか受けないかは一人一人の意志が関わってくる。本当の意味で霊的な救いがわからなければ祝福の価値はわからない。条件が変わったこととか、二世の祝福は二世同志であるべきだとか、間違いを犯しているかいないかとか、そういった条件的なことは御父母様が口を挟まれることはあっても受ける私達がとやかく意見すべきものではない。ずいぶん条件的には緩くなって門戸が広くなったことを喜びこそすれ、自分は条件もないのに祝福を戴いておきながら祝福条件の基準をどうこう言える立場には全くない。逆に祝福を取り上げると言われて返上されても何も言えない私達だ。何も言えない立場の私達から意見するような者達が出てきて、御父母様の心情を逆撫でするような事にはならないか、その方が余程問題であって祝福の条件がどうだこうだと言って祝福を弄んでいる者達は暫くの間静かにしていて欲しいとさえ思えてくる。御子女様の御相手が恋人だろうが俄か一世だろうが、そんなことは私の戴いた祝福を貶める何の影響も及ぼさないし、何の偏見も抱かせない。そんなことよりは紆余曲折あったであろう残っておられた御子女様お二人が祝福を受けられたというこの事実が何にも増して喜ばしい。御父母様にも、御本人にも、本当におめでとうございますとお祝いを述べたい。

2014年9月15日月曜日

今日の想い 786

人間がどれだけ怠惰な存在であるかは、自分を観察すれば納得できる。何かもっともらしい言葉をいつも並べてはいるけれども、そんな言葉で人間としての輪郭でも確保しなければ、なよっとして足腰が立たず途端に堕落圏に溶け込んでしまう。私を見る限り、怠惰な人間であるにも拘わらず精神的存在として霊的高みを目指すのは容易なことではない。一日の内の心の声を漏らさず書き留めていくならば、苦しいとか辛いとか、辞めたいとか何もしたくないとか、そんな嘆かわしい心の声のオンパレードだ。み旨だ摂理だと願いを受け取るとしても、先ずその願いに耳を傾けること自体に嫌気を覚えるだろう。自分自身を何度も何度もなだめすかしてやっと、上体を起こすことにこぎ着ける。そんな状態の私がどうして自己否定、自己犠牲の摂理に立ち上がることができるだろうかと思える。実力があり、てきぱきと行動に移す多くの者達がいるだろうに、敢えて私を選んだ理由を尋ねると、他に誰もいなかったということらしいのだが、、。2000年の歴史をして内外の備えをなしてきたクリスチャンが立たないのに底辺で這いまわる自分等がどうしてと疑問を抱いて当然のはずだが、功労があるとか、用意された選ばれし者だとか、そんなおだてに乗せられたままここまできた。しかしそんな怠惰な存在である一方で、確実に御父様によって植え付けられた霊が私の中に存在している。怠惰な肉の私と重生した霊の私とは熾烈な闘争を繰り広げてここまで至る。攻めては引く、引いては攻めるの繰り返しだが、この持久戦がいつまで続くのかは定かではない。基元節を越えれば重生した霊の私が一気呵成に攻めていくD-DAY(戦闘開始の日)だと信じて疑わなかったが、はたして事実はどうなのか。しかしそう訝る私は肉の私であって、肉の私(堕落の私)がD-DAYに期待していたものは所詮肉的なことだろう。目に見える大変化を期待していたに過ぎない。多くの者達が、いかにも基元節が腰折れになったと認識してしまっているようにだ。しかしそれが意外とサタン的存在達へのカモフラージュなのかも知れないと思えてきて、表面では見て取れない何か大きなうねりが既に始動しているはずだと、賢い者なら霊の自分をして尋ねているに違いない。私のように今まで何もしてこなかった、何の実りも残していないと自覚する食口に比べて、意外と今まで頑張ってきたと自負する食口の方が躓き易いのかも知れない。頑張ってきたと認識する以上、それなりに願いに応え実績も出し勝利したと信じているだろうし、そう信じていれば自分の中に霊肉の相反を覚えにくいからだ。私のように怠惰な人間は未だにその戦いを認識している。肉的な私に喘いでいる自分なので、私の認識が間違っていないかどうかについては常に神経質だ。それが私にとって何事にも謙虚な態度を取る理由になっている。私のような怠惰な人間は摂理を前進させる力にはなかなかなれないけれども躓くことは無い。躓くことは無いけれども御父母様の大きな負担になっていることは間違いがない。天が怠惰な放蕩息子を捨て置けない為に熱心な孝行息子への配慮が欠けた状態にあって、それを今の教会の現状なのかも知れない。実力のある孝行息子が飛び出し箸にも棒にもかからない放蕩息子が残っている。残っている私達は汚名返上すべく一大覚悟をしなければ御母様を支えることはできないだろう。私達に残された戦術は死生決断以外ない。怠惰な私はそれ以外ない。

2014年9月14日日曜日

今日の想い 785

第4アダムは私達なのかという問いは、第4アダムの概念が自分の中に無ければ問うことはできない。同じように、自分は氏族メシヤだと言い聞かせようとも、氏族メシヤの概念が自分の中に無ければ氏族メシヤの自覚に至ることは無い。ここでもアダムエバが犯した罪を再度犯すかも知れない状況に皆が置かれてしまう。それは神の如く賢くありたいという欲望を神様抜きにかなえようとしたエバの罪の如くであり、或いは時ならぬ時に時の行為をしてしまったアダムの罪の如くでもある。要するに本来の意味するところの概念を今理解したいと思って自己流に解釈してしまおうとする罪であり、概念がわかったつもりでそれを判断材料として行動してしまう罪だ。御父様のみ言葉は平易な言葉で述べられているにも拘わらず難解を極める。それは悟性ある者として論理で理解することに慣れてきた立場からすれば首を傾げるばかりだ。またみ言葉を論理でのみ理解するものと思っていればみ言葉の本質からずれていく。クリスチャン達が再臨されるメシヤとしてのイメージを固めていて、そのイメージにそぐわない御父様だったから受け入れることができなかったように、第4アダムとしてのイメージ、氏族メシヤとしてのイメージが既に輪郭をもって私の中にあるとするなら、それは御父様の意図される概念に合致するものなのかどうか、もし合致しないのであれば思い込みの迷宮に嵌り込み、願いとは異なる方向に向かいかねない。それは、わからないのならいつまでも動けないのでは、、と言うものではなく、氏族伝道もすべきであり祝福も勿論すべきだし、そうしながら氏族メシヤとしての私の自覚を御父母様に尋ねて問いながら前進する以外ない。その過程でイメージは次第に固まっていくものであって、先ずイメージありきではないはずだ。同じように第4アダムについても、私たちこそが第4アダムだとみ言葉に示されているとしても、今の時点で私が第4アダムのイメージをとらえること自体に無理がある。御父様御存命の間に口にして残しておかなければならないみ言葉であったから残されたものが多くあり、それは今の私達の心霊基準からして把握できるみ言葉ではないにしても、それでも口にして残されたという事実は将来的に必要になるからそうされたのであろうし、であれば私達の今の基準で早急にイメージを固めるべきではない。その意味で川のように流れる問いかけが必要なのであり、み言葉を訓読するとは問い続ける私、すなわち私はわかっていない立場だという謙虚さを失わないように尋ね続ける私を供えることだと思っている。第4アダムであるとか、第4イスラエルであるとか、蘇生、長成、完成の三段階を経て4数の位置で理解できる概念であるなら、間接主管圏の域から脱していない位置でその概念を受け取れると思わない方がいい。私が成長すれば概念は向こうの方から訪ねてくるものであって、無理矢理悟性的論理を駆使して理解に漕ぎ着けるとしても、本質を忘れて概念の鞘だけ受け取って自己満足するに留まる。み言葉を研究するなと言っているのではなく、研究の上に研究を重ねる必要があるけれどもしかしその動機が自己満足的であってはならず、あくまで心情を尋ねる姿勢をどこまでも失わないことが大切だ。

2014年9月8日月曜日

万民の戦い

私の中でいろんな存在が活動している。私が私と言う場合、普通はそれらのいろんな存在を含めての私となる。私が私と言う場合、その霊的存在達と私の核とを区別していない。そう、私には私の核がある。私の核は私の良心(神)と言い換えてもいい。夜の私が意識を持つなら、眠りに着いた時、私が分散されて私という存在が崩壊するのを見る。肉体を脱いで霊界に行けば、私のはずだった私が実は多くの霊的存在の憑依や協助で成り立っていたのを見る。そういった私の全てが削ぎ取られて最後に残るのは私の核であり私という良神に他ならない。人間は過去を振り返る時、あの時こうすればよかった、ああすればよかったと後悔する。後悔する自分はより良心に近い存在が顔を出して悔いている。しかし今を生きる自分は過去を振り返る時の自分とは異なる存在が表に出てはいないだろうか。よって後悔しきりの人生を歩み続けることになる。ようするに過去に向いた自分は良心的存在を、今を生きる自分はそれとは異なる自己中心的存在を表に出している。それでは未来に視線を送る自分はどうだろうか。私の核である良心をして明日を見つめているだろうか。私の中の良心的存在をフル稼働させて明日を創造するのか、それとも私の中の自己中心的存在が表に出てくるのを抑えきれずに惰性的時間の流れに没するのか、そこが私が神側にあるのかサタン側にあるのかの分かれ目だ。惰性的時間の流れに流されればこの世は堕落圏だから堕落圏から脱することはできない。今日を創造的に生きるとは、より善を追求して良心の痛まない時間の流れを押し出すことだ。堕落的である自己中心的存在の憑依を押しやり、創造的である良心的存在の協助で心魂を満たし、そうなると仕方なく惰性の流れの中に没していた私は、創造的時間の流れを創りだす善の開拓者であり、良心が願う、即ち良心が通じている神様が願う本然の価値を地上に現わす具現者ともなる。周囲のざわめきに対している意識を私の内面に向けて見る。向けると同時に私から発する様々な声が聞こえる。瞬間瞬間にありとあらゆる感情を吐露する様々な声が聞こえる。その声の届かぬほどに内面の奥に入っていくと私の意識は良心に対面する。しかしその良心に対面するのは容易ではない。自己中心的霊的存在達が私の内面の深くまで占拠しているからだ。私達は祈祷することで良心に対面しようとするけれども、祈祷が本来の祈祷とならずに中途で出くわす霊的存在に主管されやすい。当の本人は神の声を聞いたと確信犯的に間違いを犯す訳だけれども、良心まがいの惑わす霊的存在に主管され、思い込みの落とし穴に嵌ることになる。悪霊も善霊も降り立つこの時代だからこそ、そんなことが多く起こるのであって、教会の内外の状況を見れば代表的中心的位置にある教会だからこそ起こっていると言える。或る意味、私の内面の状況と教会を中心とする状況はリンクしている。本来の祈祷に入って良心と対面することができれば、私の良心とリンクする天の側の旗を立てている存在を見出せる。その意味では内面に於いて良心が主権を取るか、自己中心的存在が主権を取るかという食口ひとりひとりの戦い、万民の戦いだと言えるだろう。

2014年9月6日土曜日

今日の想い 784

もし読まれている食口がいるなら、多くは反感を持たれる内容になるかも知れない。私が祝福によって祝福の血統に重生されたのは、私の血統圏の血統的祝福であり血統的重生だ。私の祝福のポイントが天の血統と私の血統圏が繋がるポイントとなる。堕落しなかったなら天の血統が私の血統圏でもあり、血統は天に繋がる縦的な存在様相であって本来分かれるようなものではなかったはずだ。しかし堕落によって天の血統が遮断され、堕落の血統が今日まで人類歴史を通して繋がれてきた。血統圏は何によって繋がれているかというと、愛(の関係)によらなければ繋げることはできない。あからさまにいうと生殖器の結合を通して血統圏は繋がれる。さらに、血統圏はどこで繋がれるかというと、地上でしか繋げられないし繁殖は為されない。それでは天の血統と私の血統圏をどう繋げるかと言うと、これが祝福であり祝福の儀式を通して血統転換がなされる。では血統が祝福によって繋がれるということと、私達の祝福観念とは相反するかのような愛の自由性とをどのように理解すればいいのだろうか。一世である私の祝福は血統転換であることは間違いない。しかし二世の祝福はというと、一世によって血統転換が為されたのであれば血統転換の為の祝福という理屈は矛盾することになる。確かに教会祝福は条件祝福だと言われたのはその通りのはずで、よって私達は三回祝福を受けると言われた如く祝福を戴いた。更に基元節の再祝福により戒めを受ける以前の状態にまで戻されたのであり、イエス様の勝利圏は霊的救いに留められたけれども、御父様の勝利圏は霊肉の救いであり完全なる救いであるなら、三次による私の祝福が条件的祝福ではなく完全なる救いの祝福であって、よって二世以降の祝福が血統転換の祝福だと言うことにはならない。既に血統転換された立場で、二世からは愛の自由性を立てて結婚祝福が為されると言うことになる。もし二世が愛の自由性から堕落圏の相対を選び、祝福の血統と堕落の血統が交わる時、祝福の血統は堕落の血にまた染まるのだろうか。祝福の世界化、天宙化の折にキャンディーを配って祝福を与えたけれども、その祝福と私達の祝福とは異なるのかという問いもある。異なるのでなければ既に祝福を受けた者は山ほどいるが、受けた者が祝福を戴いたと言う認識がないという祝福がキャンデー祝福だ。けれども私達は与え配る聖酒まで戴き、私達の手から聖酒を与えて家庭祝福ができる権限も既に付与されている。そうなると一世の祝福の基準である父母マッチングを二世に求めること自体に一体どのような意味があるのかと想うのだがどうだろうか。厳しい条件を整えない限り祝福を受けた気分になれないという、そんな程度のものを重要視することで、それは祝福の世界化、天宙化とは逆行するという、返って分厚い塀を囲んで祝福を閉鎖的なものにしてはいないだろうか。もちろん祝福は安売りするようなものではないことは重々わかっているつもりだが、私達が本当に祝福の価値をわかって受けたのならまだしも、当の私達でさえも祝福の本当の価値をわかっていない立場で受けて置きながらどうこう言えるものではないだろう。親が直接相手を決めないにしても、連れて来た子を親が認めて祝福を与えてやるなら、子供は親から祝福を受けたと認識できるのではないだろうか。御父様が一世に与えた祝福に対しては真の父母として絶対的責任を負っておられる。天上天国に行って恥ずかしい思いをするかどうかは別問題としても、それでも祝福を与えた子として天国に連れて行くのが御父様だ。そのように自分の子に対しても、条件があろうがなかろうが絶対的責任を持って一緒に天国に連れて行くと覚悟し断言して、祝福を与えたいと思う。

2014年9月4日木曜日

今日の想い 783 ( 重生について )

御父様に対しては慕い侍る心情はあるけれども御母様に対しては、、と言うのであれば、霊肉重生するに於いて種はあるけれども種のままで流されてしまい重生としての実りを得ない。或いは御母様に対する中途半端な想いで、胎に植え付けようとするけれども結局流れてしまい重生として結果を見ないということになる。御母様を慕い侍る心情が本人にないなら、御父母様!と声としては上げようにも真の父母の概念は持っていない。重生は種のままであって、一人息子であられる御父様から一人娘であられる御母様を見出して生命誕生の過程を通過できず重生したとは言えない。御母様を蔑ろにするとはそういうことだ。祝福を受けたから既に重生している?とんでもない勘違いだ。私の中に重生した結果を見るのでなければ産み変えられて重生してはいない。そんな祝福に対するイロハもわからず、御母様に背を向けて摂理だみ旨だ御父様の願いではなかった、などの言行は言語道断だ。都合のいいみ言葉の箇所だけ事更に強調して、我こそはみ言葉に沿っている、御父様の願いに生きていると思っているけれども、み言葉を悪用した罪を後に問われることになる。イエス様による救いは完全なものではなく、霊的重生に留まり肉的な重生とはならなかった。しかし再臨に於いては勝利された真の父母によって霊肉の重生、完全なる救いがもたらされる。しかし私達は完全なる救いをどうすれば実感でき、自分がどうなることで霊肉の重生を果たしたと断言できるのだろうか。しかしながら私達が完全なる救いを実感したいという場合、それは堕落の位置で自体自覚の意識から願うことであり完全なる救いを為して他体自覚の意識とは異なるのであって、実感したいという願い自体は空虚なものだ。それよりは私の中に御父母様を慕い焦がれる心情の強ければ強いほど、御父母様の心情のひとつでもふたつでも復帰すればするほど、そこに重生を見るべきだ。他体自覚の意識を私の中にどれほど見るかだ。私が救われたい、私が天国へ行きたいというように、私がという時点で完全なる救い、霊肉の重生とは程遠い。家庭を救いたいという位置に立つことで個人の救いがあり、氏族を救いたいという位置に立つことで家庭の救いがあり、国が立ってこそ祝福家庭の氏族圏が立つことができる。世界人類を救うために国が立つべきであり、天の父母様が慰められることで世界がサタン圏から解放される。ようするに救いという概念は個と全体を離して成り立つ概念ではない。全体の救いを願い歩む中で個は救われる。私達が教会祝福を受ける際はいつも御母様が身篭っておられた。御母様の胎中にあるアベルである真の子女様と、カインである祝福家庭が双子一体圏に立つことで私達は重生すべく産み落とされる。イエス様が胎中闘争の歴史的勝利を通してお生まれになられたように、私達も胎中勝利の恩恵の上でアベルである御子女様との一体圏で御母様から産まれ出た立場だ。この子は私達から生まれたと、御父様と御母様が断言される限り、そして私もそれを確信する限り、サタンはその所有を諦めざるを得ない。霊肉の重生は御母様の胎中を中心として、サタンがその出生を認めてこそ晴れて重生に至る。救いの概念が個と全体を分けることができないのであれば、大きくはこの地球村が御母様の胎内であり、人生全般が重生路程であり、地上人生の中で起る全てが御父母様を中心として真の子女様と祝福家庭のアベルカイン一体圏へと繋がれていく。

2014年9月1日月曜日

今日の想い 782

一時代の摂理の中心的存在であっても、摂理の新たな段階に入ると、進めていたものが引き摺り下ろす役割をするようになってしまう。中心者として見上げていた私達は、見上げる感情を捨てて、私の存在動機が御父母様にあるのを確認して新たな摂理の担い手になることが要求されている。その御方本人にすれば、受け取ったみ言葉を土台として行動していると思っておられるのだろうが、結論を御父母様に委ねるのではなく自分が既に結論を出している。ようするに自分なりの信仰観、真の父母観、摂理観が立っていて、今までの摂理では天の願いと自分なりのそれらの観が同調していたに過ぎず、だから中心者足り得た訳だけれども、新たな摂理ではそれらが不調して邪魔している。あちこち回られながら信じるところを訴えておられるけれども、天運は既に離れている。慕って従う者達も同様で、自分なりの観に固執したまま新しい次元に立つことができないでいる。同じように摂理から取り残される。或る意味反教会の立場を取ることで、新しい摂理の担い手になる者達の試練の役割を一時果たすことにはなるが、その後は霊的生命を次第に失い天運は彼等と共にはない。静かに教会を去るよりは摂理に関わったそれなりの証しを立てたいと、例えば愛の減少感から反抗的態度を示す子供のように、霊的傷跡のひとつでも残そうと消えかかる最後の火が燃え上がるように旗を掲げる。ルーシェルが愛の減少感から行動に出たように、彼等によくよく接してみると、ここまでやったのに報われないという恨みが根底にあって、そういう意志表示を出しているのが感じられる。しかしその自覚が彼等にはない。敢えて自覚しようともしない。基元節を越えて摂理は新しい歴史の出発を為したから、復帰摂理として状況が流れている訳ではない。先天時代の今までの摂理は復帰摂理であり、アベルの位置、カインの位置、天使長の位置、、、と、それぞれに歴史的立場を代表した人物であり団体であった訳だけれども、新しい歴史が出発したのは再創造としてではなく、歴史の同時性として過去に見ることがなかった新たな創造路程を歩んでいる。ルーシェルもアダムもエバも、時代を遡って過去に同じ役割を担った存在はおらず初めての存在であったように、後天時代に於いては、御父母様も祝福家庭も歴史に見なかった初めての存在であることを認識して、摂理的創造の歩みを為さなければならない。グループ派は知性派でもある。彼らの話を聞いてもブログを見ても尤もな言い分であるし、元中心的存在であった御方もみ言葉を誰よりも勉強されていてそれについては頭が下がる。しかし敢えて繰り返し言うことになるが彼等は彼等なりの観に縛られたままだ。おそらく夜昼の神様を理解しようともしていないし、訓読会で語られた謎解きのような御話も理解しようとする様子はない。八定式以降のみ言葉を精査すればするほど、それまでに語られた内容を理解する神観をしては理解を越える内容が増えていく。特に夜の神様を理解しようとしなければ、後天開闢時代である新しい歴史の担い手にはなれない。