2014年9月1日月曜日

今日の想い 782

一時代の摂理の中心的存在であっても、摂理の新たな段階に入ると、進めていたものが引き摺り下ろす役割をするようになってしまう。中心者として見上げていた私達は、見上げる感情を捨てて、私の存在動機が御父母様にあるのを確認して新たな摂理の担い手になることが要求されている。その御方本人にすれば、受け取ったみ言葉を土台として行動していると思っておられるのだろうが、結論を御父母様に委ねるのではなく自分が既に結論を出している。ようするに自分なりの信仰観、真の父母観、摂理観が立っていて、今までの摂理では天の願いと自分なりのそれらの観が同調していたに過ぎず、だから中心者足り得た訳だけれども、新たな摂理ではそれらが不調して邪魔している。あちこち回られながら信じるところを訴えておられるけれども、天運は既に離れている。慕って従う者達も同様で、自分なりの観に固執したまま新しい次元に立つことができないでいる。同じように摂理から取り残される。或る意味反教会の立場を取ることで、新しい摂理の担い手になる者達の試練の役割を一時果たすことにはなるが、その後は霊的生命を次第に失い天運は彼等と共にはない。静かに教会を去るよりは摂理に関わったそれなりの証しを立てたいと、例えば愛の減少感から反抗的態度を示す子供のように、霊的傷跡のひとつでも残そうと消えかかる最後の火が燃え上がるように旗を掲げる。ルーシェルが愛の減少感から行動に出たように、彼等によくよく接してみると、ここまでやったのに報われないという恨みが根底にあって、そういう意志表示を出しているのが感じられる。しかしその自覚が彼等にはない。敢えて自覚しようともしない。基元節を越えて摂理は新しい歴史の出発を為したから、復帰摂理として状況が流れている訳ではない。先天時代の今までの摂理は復帰摂理であり、アベルの位置、カインの位置、天使長の位置、、、と、それぞれに歴史的立場を代表した人物であり団体であった訳だけれども、新しい歴史が出発したのは再創造としてではなく、歴史の同時性として過去に見ることがなかった新たな創造路程を歩んでいる。ルーシェルもアダムもエバも、時代を遡って過去に同じ役割を担った存在はおらず初めての存在であったように、後天時代に於いては、御父母様も祝福家庭も歴史に見なかった初めての存在であることを認識して、摂理的創造の歩みを為さなければならない。グループ派は知性派でもある。彼らの話を聞いてもブログを見ても尤もな言い分であるし、元中心的存在であった御方もみ言葉を誰よりも勉強されていてそれについては頭が下がる。しかし敢えて繰り返し言うことになるが彼等は彼等なりの観に縛られたままだ。おそらく夜昼の神様を理解しようともしていないし、訓読会で語られた謎解きのような御話も理解しようとする様子はない。八定式以降のみ言葉を精査すればするほど、それまでに語られた内容を理解する神観をしては理解を越える内容が増えていく。特に夜の神様を理解しようとしなければ、後天開闢時代である新しい歴史の担い手にはなれない。

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