2014年9月6日土曜日

今日の想い 784

もし読まれている食口がいるなら、多くは反感を持たれる内容になるかも知れない。私が祝福によって祝福の血統に重生されたのは、私の血統圏の血統的祝福であり血統的重生だ。私の祝福のポイントが天の血統と私の血統圏が繋がるポイントとなる。堕落しなかったなら天の血統が私の血統圏でもあり、血統は天に繋がる縦的な存在様相であって本来分かれるようなものではなかったはずだ。しかし堕落によって天の血統が遮断され、堕落の血統が今日まで人類歴史を通して繋がれてきた。血統圏は何によって繋がれているかというと、愛(の関係)によらなければ繋げることはできない。あからさまにいうと生殖器の結合を通して血統圏は繋がれる。さらに、血統圏はどこで繋がれるかというと、地上でしか繋げられないし繁殖は為されない。それでは天の血統と私の血統圏をどう繋げるかと言うと、これが祝福であり祝福の儀式を通して血統転換がなされる。では血統が祝福によって繋がれるということと、私達の祝福観念とは相反するかのような愛の自由性とをどのように理解すればいいのだろうか。一世である私の祝福は血統転換であることは間違いない。しかし二世の祝福はというと、一世によって血統転換が為されたのであれば血統転換の為の祝福という理屈は矛盾することになる。確かに教会祝福は条件祝福だと言われたのはその通りのはずで、よって私達は三回祝福を受けると言われた如く祝福を戴いた。更に基元節の再祝福により戒めを受ける以前の状態にまで戻されたのであり、イエス様の勝利圏は霊的救いに留められたけれども、御父様の勝利圏は霊肉の救いであり完全なる救いであるなら、三次による私の祝福が条件的祝福ではなく完全なる救いの祝福であって、よって二世以降の祝福が血統転換の祝福だと言うことにはならない。既に血統転換された立場で、二世からは愛の自由性を立てて結婚祝福が為されると言うことになる。もし二世が愛の自由性から堕落圏の相対を選び、祝福の血統と堕落の血統が交わる時、祝福の血統は堕落の血にまた染まるのだろうか。祝福の世界化、天宙化の折にキャンディーを配って祝福を与えたけれども、その祝福と私達の祝福とは異なるのかという問いもある。異なるのでなければ既に祝福を受けた者は山ほどいるが、受けた者が祝福を戴いたと言う認識がないという祝福がキャンデー祝福だ。けれども私達は与え配る聖酒まで戴き、私達の手から聖酒を与えて家庭祝福ができる権限も既に付与されている。そうなると一世の祝福の基準である父母マッチングを二世に求めること自体に一体どのような意味があるのかと想うのだがどうだろうか。厳しい条件を整えない限り祝福を受けた気分になれないという、そんな程度のものを重要視することで、それは祝福の世界化、天宙化とは逆行するという、返って分厚い塀を囲んで祝福を閉鎖的なものにしてはいないだろうか。もちろん祝福は安売りするようなものではないことは重々わかっているつもりだが、私達が本当に祝福の価値をわかって受けたのならまだしも、当の私達でさえも祝福の本当の価値をわかっていない立場で受けて置きながらどうこう言えるものではないだろう。親が直接相手を決めないにしても、連れて来た子を親が認めて祝福を与えてやるなら、子供は親から祝福を受けたと認識できるのではないだろうか。御父様が一世に与えた祝福に対しては真の父母として絶対的責任を負っておられる。天上天国に行って恥ずかしい思いをするかどうかは別問題としても、それでも祝福を与えた子として天国に連れて行くのが御父様だ。そのように自分の子に対しても、条件があろうがなかろうが絶対的責任を持って一緒に天国に連れて行くと覚悟し断言して、祝福を与えたいと思う。

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