2014年9月8日月曜日

万民の戦い

私の中でいろんな存在が活動している。私が私と言う場合、普通はそれらのいろんな存在を含めての私となる。私が私と言う場合、その霊的存在達と私の核とを区別していない。そう、私には私の核がある。私の核は私の良心(神)と言い換えてもいい。夜の私が意識を持つなら、眠りに着いた時、私が分散されて私という存在が崩壊するのを見る。肉体を脱いで霊界に行けば、私のはずだった私が実は多くの霊的存在の憑依や協助で成り立っていたのを見る。そういった私の全てが削ぎ取られて最後に残るのは私の核であり私という良神に他ならない。人間は過去を振り返る時、あの時こうすればよかった、ああすればよかったと後悔する。後悔する自分はより良心に近い存在が顔を出して悔いている。しかし今を生きる自分は過去を振り返る時の自分とは異なる存在が表に出てはいないだろうか。よって後悔しきりの人生を歩み続けることになる。ようするに過去に向いた自分は良心的存在を、今を生きる自分はそれとは異なる自己中心的存在を表に出している。それでは未来に視線を送る自分はどうだろうか。私の核である良心をして明日を見つめているだろうか。私の中の良心的存在をフル稼働させて明日を創造するのか、それとも私の中の自己中心的存在が表に出てくるのを抑えきれずに惰性的時間の流れに没するのか、そこが私が神側にあるのかサタン側にあるのかの分かれ目だ。惰性的時間の流れに流されればこの世は堕落圏だから堕落圏から脱することはできない。今日を創造的に生きるとは、より善を追求して良心の痛まない時間の流れを押し出すことだ。堕落的である自己中心的存在の憑依を押しやり、創造的である良心的存在の協助で心魂を満たし、そうなると仕方なく惰性の流れの中に没していた私は、創造的時間の流れを創りだす善の開拓者であり、良心が願う、即ち良心が通じている神様が願う本然の価値を地上に現わす具現者ともなる。周囲のざわめきに対している意識を私の内面に向けて見る。向けると同時に私から発する様々な声が聞こえる。瞬間瞬間にありとあらゆる感情を吐露する様々な声が聞こえる。その声の届かぬほどに内面の奥に入っていくと私の意識は良心に対面する。しかしその良心に対面するのは容易ではない。自己中心的霊的存在達が私の内面の深くまで占拠しているからだ。私達は祈祷することで良心に対面しようとするけれども、祈祷が本来の祈祷とならずに中途で出くわす霊的存在に主管されやすい。当の本人は神の声を聞いたと確信犯的に間違いを犯す訳だけれども、良心まがいの惑わす霊的存在に主管され、思い込みの落とし穴に嵌ることになる。悪霊も善霊も降り立つこの時代だからこそ、そんなことが多く起こるのであって、教会の内外の状況を見れば代表的中心的位置にある教会だからこそ起こっていると言える。或る意味、私の内面の状況と教会を中心とする状況はリンクしている。本来の祈祷に入って良心と対面することができれば、私の良心とリンクする天の側の旗を立てている存在を見出せる。その意味では内面に於いて良心が主権を取るか、自己中心的存在が主権を取るかという食口ひとりひとりの戦い、万民の戦いだと言えるだろう。

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