2014年9月4日木曜日
今日の想い 783 ( 重生について )
御父様に対しては慕い侍る心情はあるけれども御母様に対しては、、と言うのであれば、霊肉重生するに於いて種はあるけれども種のままで流されてしまい重生としての実りを得ない。或いは御母様に対する中途半端な想いで、胎に植え付けようとするけれども結局流れてしまい重生として結果を見ないということになる。御母様を慕い侍る心情が本人にないなら、御父母様!と声としては上げようにも真の父母の概念は持っていない。重生は種のままであって、一人息子であられる御父様から一人娘であられる御母様を見出して生命誕生の過程を通過できず重生したとは言えない。御母様を蔑ろにするとはそういうことだ。祝福を受けたから既に重生している?とんでもない勘違いだ。私の中に重生した結果を見るのでなければ産み変えられて重生してはいない。そんな祝福に対するイロハもわからず、御母様に背を向けて摂理だみ旨だ御父様の願いではなかった、などの言行は言語道断だ。都合のいいみ言葉の箇所だけ事更に強調して、我こそはみ言葉に沿っている、御父様の願いに生きていると思っているけれども、み言葉を悪用した罪を後に問われることになる。イエス様による救いは完全なものではなく、霊的重生に留まり肉的な重生とはならなかった。しかし再臨に於いては勝利された真の父母によって霊肉の重生、完全なる救いがもたらされる。しかし私達は完全なる救いをどうすれば実感でき、自分がどうなることで霊肉の重生を果たしたと断言できるのだろうか。しかしながら私達が完全なる救いを実感したいという場合、それは堕落の位置で自体自覚の意識から願うことであり完全なる救いを為して他体自覚の意識とは異なるのであって、実感したいという願い自体は空虚なものだ。それよりは私の中に御父母様を慕い焦がれる心情の強ければ強いほど、御父母様の心情のひとつでもふたつでも復帰すればするほど、そこに重生を見るべきだ。他体自覚の意識を私の中にどれほど見るかだ。私が救われたい、私が天国へ行きたいというように、私がという時点で完全なる救い、霊肉の重生とは程遠い。家庭を救いたいという位置に立つことで個人の救いがあり、氏族を救いたいという位置に立つことで家庭の救いがあり、国が立ってこそ祝福家庭の氏族圏が立つことができる。世界人類を救うために国が立つべきであり、天の父母様が慰められることで世界がサタン圏から解放される。ようするに救いという概念は個と全体を離して成り立つ概念ではない。全体の救いを願い歩む中で個は救われる。私達が教会祝福を受ける際はいつも御母様が身篭っておられた。御母様の胎中にあるアベルである真の子女様と、カインである祝福家庭が双子一体圏に立つことで私達は重生すべく産み落とされる。イエス様が胎中闘争の歴史的勝利を通してお生まれになられたように、私達も胎中勝利の恩恵の上でアベルである御子女様との一体圏で御母様から産まれ出た立場だ。この子は私達から生まれたと、御父様と御母様が断言される限り、そして私もそれを確信する限り、サタンはその所有を諦めざるを得ない。霊肉の重生は御母様の胎中を中心として、サタンがその出生を認めてこそ晴れて重生に至る。救いの概念が個と全体を分けることができないのであれば、大きくはこの地球村が御母様の胎内であり、人生全般が重生路程であり、地上人生の中で起る全てが御父母様を中心として真の子女様と祝福家庭のアベルカイン一体圏へと繋がれていく。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿