2014年9月28日日曜日

今日の想い 791

男性にとって原理原則をまもることがどれほど大変か、女性には先ずわかるまい。創世当時は女性はひとりでも堕落が起こったけれども、現代は数多の女性がまわりにいて男性にとってどれほど大変かという御話を御父様はされている。本然の男性であれば相対者以外は何も感じないし惹かれることはないと、女性食口だけではなく男性食口の多くも思っているようだけれども、堕落した存在だからいろんな女性に惹かれるのではなく男性だから惹かれる、というのが実は正しいと思っている。男性から言って、まちがいも犯さず妻と添い遂げたと言える夫婦は二通りある。それはこの世でも同じだと思うが、男性が原理原則をまもるために弛まぬ努力に努力を重ねてきたか、あるいは男性が全くの甲斐性なしかの二通りだ。食口の場合甲斐性なし、すなわち男としての魅力に欠けるかあるいは生きる密度が薄く欲望が欠如している者が結構多かった。しかし地上の力とは望みを手にしたいという欲望だ。私達は異性に向かう欲望を色情因縁の一言で納得してしまい、異性に向かうベクトルの全てを罪として片付けてしまうけれども、その欲望そのものが悪ではない。どう主管するかであって、主管することと抑え込むこととは異なる。抑え込めば抑え込むほどに欲望があらぬ方向に爆発してしまう。主管するとは力の原理をして主管するのではなく、愛をして主管する。それは私自身の問題においても同じであって、欲望を抑え込むのではなく昇華させることが愛をして主管することだ。肉欲、感覚欲は肉と感覚の次元に留まる限りは主管などおぼつかない。偽りの愛の関係で堕落が起こったその場所には神様の言い知れぬ悲しみの心情が今なお息衝いている。海に沈んで亡くなった子供の無念を親として昇華できず、美しい海を見ることにさえ強烈な心痛を覚えて普通には見れないように、神様にとっては今なお愛の器官である生殖器に対して苦しいほどの心痛を覚えられる。もっとも精魂を傾けて創造された生殖器が、もっとも忌まわしい部位となってしまった。私達はその神様の痛みの心情を開放する責任がある。神様の心情を尋ねる私を用意して初めて肉と感覚の次元の縛りから解かれていく。フリーセックスをよしとするような性の氾濫はもう抑えが全く効かない。ネットという媒体を通してもあらゆる欲望を刺激している。泥沼の中から真っ白な蓮の花が咲くように、氾濫した中から真の性が見出されると私は思っている。この言い方を誤解してほしくないのだが、真の性は真の愛からの全く新しい性の在り方であり、形は同じであっても既存の性に見る印象を寄せ付けない。私達は聖酒を戴く聖酒式に参加したけれども、教会で禁じている酒をもっとも神聖な儀式に使用される意味を考えなければならない。性に対しても同じであって、教会生活ではあれほどに見るな触れるな食べるなと禁じている性をして三日儀式が為される。そのものが悪ではなく、どう用いるかによって善にもなり悪にもなるということだ。形は同じでも形の中身、霊の部分が異なる。酒呑みが酒を断てないのは酔う味を肉体が覚えたからであり、堕落人間が性を断てないのも生命体が酔う味を知っているからだ。そのように本然の人間であれば神様との関係を断つことはできない。それは自分の霊が真の愛に酔う味を知っているからだ。本然の人間は真の愛に酔って生きる。そうすると私の霊が真の愛に目覚めている度合いに応じて性を主管できるだろう。最初の確認をすると、プラスである男性にとってマイナスである女性へのベクトルが働くのは当然であり、であるならその衝動のままに行動すればいいのかと言うとそうではなく、それは霊の破壊であってその横的なる衝動をどうすることで神様へ向かう縦的な私を用意することができるかを問わなければならない。真の愛に酔うことを覚えた人間は堕落しない。酒も性も我慢して抑え込むのではなく「主管」する。

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