2014年9月24日水曜日

今日の想い 790

人間が本然の人間として心身一体圏に立てば一柱の良神として立つ。私が本来一柱の良神(心)であるように、相対もまた一柱の良神(心)だ。アダムが男性神として立ち、さらに父神として立つべきであったように、エバは女性神として立ち、さらに母神として立つべきだった。そうであればカインもまた一柱の良神であり、アベルもそうだ。カインは石工(科学技術)の神として立つべき存在であったし、アベルは祭祀の神として立つべき存在だった。セツはセツでまたアベルカインの繋ぎとなる触媒を果たすべき一柱の神として立つべき存在だった。おそらくこんな話、幻覚と妄想に取り付かれた話にはついていけないと、食口であってもそうなるはずだ。推測の域を出ていない話なのでそう思われても仕方がない。人間が位相を高めていき、その人間の中に神を宿し神をみる存在になるということ、それは父は子に対しては父以上の存在になってくれることが願いであるなら、神の位相に立つ、即ち神的存在になってこそ神様と人間が父子関係であるとは言えないだろうか。それが良心のある人間ひとりひとりは一柱の良神になり得ると言える私の根拠だ。御父様は、堕落はアダムエバの堕落のみならず、カインアベルセツそれぞれの相対を含めた8人家族の堕落だと話された。その意味を何度も何度も尋ねてみて輪郭を持ってきたのが、8人家族のうちの一組でも他の犯した罪を収拾できたなら堕落の血統圏は形成されなかったのではないかという推測だ。カインがアベルを殺害したという事実が堕落を決定的なものにしたと言われたように、神からの三代圏を通して堕落が決定的になったから、三代圏を通して復帰されなければならない。三代圏の復帰が私を起点とする三代が信仰を持ち、堕落せず、祝福を受けることと認識しているけれども、果たしてそうだろうか。さらには信仰があるないの基準、堕落したしていないの基準、祝福を受けた受けていないの明確な基準が果たして私達の中にあるのだろうか。それは条件的なものに過ぎないとは言えないだろうか。おそらく多くの食口の三代圏の完成に対する認識は条件的なものに留まっており、御父様の三代圏の完成の概念とは異なると私は思っている。責任分担という概念の中にそうあるべきだという教条的観念が必要条件としてあるなら、それは責任分担ではなく条件的枷以外の何物でもないと思うのだがどうだろうか。条件の枷と自由性とは相容れない。神様が善悪を定める神様、天国と地獄に振り分ける神様ではなく、父なる神様でありさらには心情の神様であられることを知ったのは私達に取って福音中の福音だ。条件至上主義の神様であるなら私なぞとっくに淘汰されて消え失せている。科学はカインの申し子だ。神に為りそびれたカインの繁栄を現代の科学文明に見ている。宗教はアベルの申し子だ。カインに殺された無念の叫びを科学文明に追い遣られる宗教として現代に見ている。思想はセツの申し子だ。科学と宗教の共存を現代の中に夢見ている。人類はアダム家庭という8人家族の展開だ。祝福家庭達は統一家として真の家庭の展開だ。人類始祖アダムとエバが堕落しなかったならばアダムとエバは人類の真の父母として子々孫々にまで君臨したはずだ。カインアベルセツも天使長ならぬ種族長としてやはり子々孫々にまで君臨しただろう。御父様は入籍に伴って支派編成が為されることを語られている。12支派が編成されて種族長(?)を中心に子々孫々まで12の統一文化を花咲かせる。将来的に心身一体圏を為して良心の意のままに生きる良神的存在になれば、人間の意識は神様を求める在り様から神様共にあって意志疎通する在り様へと変わる。

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