2014年9月29日月曜日

今日の想い 793 (氏族復帰)

今まで様々な摂理が打ち出されてきて、その度にその中心的摂理に心身を投入してきたわけだが、ある摂理から次の摂理が出されると新しい摂理に皆が皆、全ての意識が移ってしまって、過去の摂理はその完成を見ることなくうやむやになってしまう。先天時代はそれでもサタンと交わる一線上で駆け引きがあり、御父様の号令のままに動じ静じて、それが条件物なり条件期間なりの蕩減的なものがあったからそれでも善しとされた。しかしあまりにも摂理の動きが激しく、その摂理的意義もわからずに取り敢えず着いて行ったものだから、勝利的実績を残さずに転々とすることに堕してしまった感がある。何も勝利していないのに兎に角ここまで着いてこれた、というところだろうか。しかし、これからは任されて私達の自由意志に委ねられれば、結果を残す責任も当然問われるわけで、結果は残していませんがそれでも何とか着いてきましたという報告は報告とは言えないだろう。氏族メシヤとしての責任を背負っている。やれ献金摂理だ、やれホームチャーチだ、訓読教会だスモールグループ活動だとそれぞれ鼻は突っ込んだがどれひとつ形にはなっていない。その延長線上に氏族復帰があって過去の摂理と同じように活動するものだと思っているけれども、延長線上に氏族復帰はないし、鼻を突っ込んだだけでやはりうまくいきませんでしたという事にはならない。是が非でも為し遂げなければならない私と私の家庭の宿命的責任が氏族復帰だ。氏族は私そのものであり、氏族の存在や存続と、私と私の家庭の存在や存続は同じだという感覚だ。それを思って寝るに寝れないほどの切実さを感じているだろうか。私がやらないなら血統圏の誰かがやらなければならない宿命的なものだ。だから氏族復帰に対しては、今までのように鼻を突っ込むような姿勢では埒が明かない。下手に氏族復帰活動だと称して見え透いた署名や献金要請ではかえって距離を置かれてしまうだろうし、人格も社会的地位もない者が詰め寄っても、氏族にとってみれば得体の知れない布教活動に過ぎないのであって当然引かれてしまうだろう。統一教会に繋げる直球が難しいとなるとどうすればよいのだろうか。分派が一生懸命食口に接触して感化させようとするけれども、もし食口に向かうのではなく自分の氏族に向かい氏族を感化できるなら、それは分派ではなく氏族復帰活動になるかも知れない。直球が難しいと言うことになると、一端引いて、方便を使うことによる氏族復帰二次摂理の完成を目論まなければならないだろう。しかし頂上に向かう経路をどう取るにしても、私のいる事情圏、環境圏をすべて捨ててその道に、というのは果たして得策だろうか。すべての道は実は事情圏、環境圏の中から導き出せるのではないだろうか。抱えている事情圏、環境圏は氏族復帰基台摂理であるかも知れない。

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