2014年9月20日土曜日

祝福、そして入籍

地上人間にとって祝福が霊肉の救いであることはその通りだけれども、祝福を戴ければそれでよしとそこに留まるのではなく、私を中心として展開する外的地上的な救済圏を広げ、霊肉共の完全なる救いを得なければ地上天上天国の住人にはなれない。創造の道理は外的環境が用意されてより内的なものが環境の中に立てられた。人間の創造も体を先に造っておいてから霊を吹き入れた。その道理でいくと、内的霊的救いが救いとして立つ為には外的地上的救いが基盤となることがわかる。ここで考えなければならないのは、私達の最重要キイワードだった「祝福」から更なる重要なキイワードが呈示されたことだ。それが何かというと「入籍」という言葉だ。どこに入籍するかというと「天の国の生命録(生命の書)に入籍」とある。「祝福を受けることは入籍することではなく、象徴的入籍」とあるから、象徴があるなら形象があり、さらには実体的入籍があることがわかる。形象的入籍とは何で実体的入籍とは何か。多くの食口達にとって、祝福というキイワードには敏感であり反応するけれども、入籍というキイワードは現実味に欠け、私とどう関係があるのだろうかと思っているのが実情だ。氏族メシヤ、氏族復帰という概念に対しては祝福止まりではさして重要性を覚えず、入籍が念頭にあってこそその重要性を肌で感じるようになる。「祝福を受けた家庭は条件的完成圏内にしか立たず、霊界に行ったら異なる手続きが必要になり、その手続きを済ませて完成的完成をしたと言えば通行券をもらって天国に入る」、と御父様が言われたように実に具体的だ。氏族復帰に関しては「入籍時代が来ても氏族復帰ができていない人はここに入籍することはできません。」とあり、入籍の為には氏族復帰、氏族復帰は氏族メシヤとして立つこと(宣言すること)を氏族が先ず受け入れることで成り立つ。氏族復帰は氏族メシヤ宣言がされていなかったらその入り口にも立っていないということだ。祝福は戴いて受けるという受動的であるけれども、入籍は自分が氏族メシヤとして立ち自分が氏族復帰を推し進めるという能動的位置に立たなければ為し得ない。祝福が全てだと祝福の価値もわからずに祝福に留まり観念的なままでいるけれども、入籍となると実に具体的、実体的にならざるを得ないのではないだろうか。今回残っておられた御子女様御二方が祝福を受けられたけれども、それに対してどうのこうの言う者にかぎって氏族復帰への意識はなく、氏族メシヤの自覚もなく、よって「入籍」というキイワードを自己流の祝福観念に囚われたまま見出せないでいる。そういう自分はわかっているかと言うとわかっていない訳だが、少なくとも「入籍」という意味が「祝福」にも増して重要な意味を持っている、或いは「入籍」なくしては祝福も完成とはならないという感覚は持っているつもりだ。

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