2014年9月19日金曜日

今日の想い 787 (御子女様の祝福)

反対を呈する者、批判を口にする者は、自分の中に正しい判断基準が立っていてそうしていると信じて疑わないが、実は判断基準を宛がおうとするその動機には反感の感情が渦巻いていることを自覚していない。自分の中の感情が反対させ批判を口にさせている。その感情は堕落的私の感情だ。私を救って下さる御父母様だという信仰のない者が、祝福は御父母様によって定義されるものであるのにも拘わらず、その祝福に対しておかしいとか自分の論理を展開して批判するのは全くのお門違いだ。さらに信仰のない者の言葉に触発されて批判してしまう食口は、祝福の価値のわからない者の言葉を受け入れて御父母様から戴いた祝福を貶めている。御父母様の祝福による救いは先ず霊の救いであって、自分が霊の存在だという霊の認識のない者、間違った霊の認識を抱いている者、罪の認識がなく救いを求めていない者は、霊の救いではなく心魂の平安を求めていてそれが救いだと信じている。よって心魂の平安に波風立てる状況になると、祝福は御父母様によって戴くものでありながらも自分なりの祝福に対する価値観、霊の救いを無視した価値観を抱けば、それは御父母様の祝福を否定してしまっている。御父母様への不信と同時に御父母様から戴いた祝福は形骸化してしまい中身は既に無い。祝福は一方では厳しい御父様の条件の枷を嵌められてそれに適った者が祝福を戴いた。しかし一方で祝福の世界化、天宙化が願われてきて受ける条件は無いに等しい状態の者にも祝福を分け与えた。極みはキャンディー祝福で、意味もわからず本人の自覚もなくただ手にして舐めるという条件で祝福を戴いている。さらに聖賢達と殺人鬼という極と極を祝福されており、よって個人から天宙までの横的全ての段階、殺人鬼という畜生以下から霊的高みまでの縦的全ての段階を祝福圏内に抱合しておられる。全ての存在を祝福圏内に抱合されたということと、全ての存在が祝福を受けたということとは異なるのであり、圏内として可能ではあるけれども受けるか受けないかは一人一人の意志が関わってくる。本当の意味で霊的な救いがわからなければ祝福の価値はわからない。条件が変わったこととか、二世の祝福は二世同志であるべきだとか、間違いを犯しているかいないかとか、そういった条件的なことは御父母様が口を挟まれることはあっても受ける私達がとやかく意見すべきものではない。ずいぶん条件的には緩くなって門戸が広くなったことを喜びこそすれ、自分は条件もないのに祝福を戴いておきながら祝福条件の基準をどうこう言える立場には全くない。逆に祝福を取り上げると言われて返上されても何も言えない私達だ。何も言えない立場の私達から意見するような者達が出てきて、御父母様の心情を逆撫でするような事にはならないか、その方が余程問題であって祝福の条件がどうだこうだと言って祝福を弄んでいる者達は暫くの間静かにしていて欲しいとさえ思えてくる。御子女様の御相手が恋人だろうが俄か一世だろうが、そんなことは私の戴いた祝福を貶める何の影響も及ぼさないし、何の偏見も抱かせない。そんなことよりは紆余曲折あったであろう残っておられた御子女様お二人が祝福を受けられたというこの事実が何にも増して喜ばしい。御父母様にも、御本人にも、本当におめでとうございますとお祝いを述べたい。

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