2014年9月15日月曜日
今日の想い 786
人間がどれだけ怠惰な存在であるかは、自分を観察すれば納得できる。何かもっともらしい言葉をいつも並べてはいるけれども、そんな言葉で人間としての輪郭でも確保しなければ、なよっとして足腰が立たず途端に堕落圏に溶け込んでしまう。私を見る限り、怠惰な人間であるにも拘わらず精神的存在として霊的高みを目指すのは容易なことではない。一日の内の心の声を漏らさず書き留めていくならば、苦しいとか辛いとか、辞めたいとか何もしたくないとか、そんな嘆かわしい心の声のオンパレードだ。み旨だ摂理だと願いを受け取るとしても、先ずその願いに耳を傾けること自体に嫌気を覚えるだろう。自分自身を何度も何度もなだめすかしてやっと、上体を起こすことにこぎ着ける。そんな状態の私がどうして自己否定、自己犠牲の摂理に立ち上がることができるだろうかと思える。実力があり、てきぱきと行動に移す多くの者達がいるだろうに、敢えて私を選んだ理由を尋ねると、他に誰もいなかったということらしいのだが、、。2000年の歴史をして内外の備えをなしてきたクリスチャンが立たないのに底辺で這いまわる自分等がどうしてと疑問を抱いて当然のはずだが、功労があるとか、用意された選ばれし者だとか、そんなおだてに乗せられたままここまできた。しかしそんな怠惰な存在である一方で、確実に御父様によって植え付けられた霊が私の中に存在している。怠惰な肉の私と重生した霊の私とは熾烈な闘争を繰り広げてここまで至る。攻めては引く、引いては攻めるの繰り返しだが、この持久戦がいつまで続くのかは定かではない。基元節を越えれば重生した霊の私が一気呵成に攻めていくD-DAY(戦闘開始の日)だと信じて疑わなかったが、はたして事実はどうなのか。しかしそう訝る私は肉の私であって、肉の私(堕落の私)がD-DAYに期待していたものは所詮肉的なことだろう。目に見える大変化を期待していたに過ぎない。多くの者達が、いかにも基元節が腰折れになったと認識してしまっているようにだ。しかしそれが意外とサタン的存在達へのカモフラージュなのかも知れないと思えてきて、表面では見て取れない何か大きなうねりが既に始動しているはずだと、賢い者なら霊の自分をして尋ねているに違いない。私のように今まで何もしてこなかった、何の実りも残していないと自覚する食口に比べて、意外と今まで頑張ってきたと自負する食口の方が躓き易いのかも知れない。頑張ってきたと認識する以上、それなりに願いに応え実績も出し勝利したと信じているだろうし、そう信じていれば自分の中に霊肉の相反を覚えにくいからだ。私のように怠惰な人間は未だにその戦いを認識している。肉的な私に喘いでいる自分なので、私の認識が間違っていないかどうかについては常に神経質だ。それが私にとって何事にも謙虚な態度を取る理由になっている。私のような怠惰な人間は摂理を前進させる力にはなかなかなれないけれども躓くことは無い。躓くことは無いけれども御父母様の大きな負担になっていることは間違いがない。天が怠惰な放蕩息子を捨て置けない為に熱心な孝行息子への配慮が欠けた状態にあって、それを今の教会の現状なのかも知れない。実力のある孝行息子が飛び出し箸にも棒にもかからない放蕩息子が残っている。残っている私達は汚名返上すべく一大覚悟をしなければ御母様を支えることはできないだろう。私達に残された戦術は死生決断以外ない。怠惰な私はそれ以外ない。
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