2014年9月21日日曜日

今日の想い 788

御父様に直接にお会いした最後もラスベガスであったし、御聖和の後、御母様に直接にお会いした最初もラスベガスだった。私は御聖和、基元節を中心に前後して御父母様に挟まれている。過去と未来の橋渡しが現在であるように、御父様と御母様の橋渡しとして私がいる。もし私がこけるなら私を中心とした摂理は失敗する。私が御父母様一体圏の私として立つなら、私を中心とした摂理は必ず成し遂げられる。既に一体圏に立っておられる御父様という実体み言と御母様という聖霊実体の一体圏内に私が入ることができれば、天宙的勝利圏が私という現在に現れる。私は御父様の何を相続した位置に立っているのだろうか。私は御母様から何を受けている位置に立っているのだろうか。私を中心とした摂理を考えた時、過去の私は願いを相続する為にひたすらついて行き、引き挙げられようとして御父様を見上げていた。では御聖和以降の私は御父様に代わる御母様として、同じようにひたすらついて行き、引き上げられる為の御母様を見上げるのだろうか。聖和式のとき御母様が最も強調されたことは、歩みを止めずに前進し続けなさいということだった。それは私を中心とする摂理が、私をして為されるべき御父様の願いを相続した位置で、相続したその願いを捨てずにそれを成就すべく前進しなさいということではないだろうか。御父様が御聖和されたのだからこれからは御母様について行きなさいとは話されなかった。もちろん、だからといって好き勝手に歩めばいいというような稚拙な誤解には至らない。聖霊実体である御母様は、私が御父様の願いに立っているなら確実に共におられて聖霊の役事を引き受けられるはずだ。御父様の願いに立てば立つほどにその役事を事情圏環境圏に見るはずだ。それは御父様の願いを相続していることが先ず重要であり、私が摂理に対してどれだけ切実であるかということが問われている。だから摂理に対する切実感を強めていく私にならなければならない。この私に一体何ができるでしょうかと嘆いているかぎり、未だ御父様の願いを相続しているとは言えないだろう。ひたすら責任を回避しようと逃げ回っているにすぎない。私は願いを受けた位置で本当に切実だろうか。痛いほどに切実であられる御父母様であるのに、余生を大事なく、大罪を犯すことなく、み前に出た時言い訳できる程度に生活していればそれでいいのだろうか。負債さえ覚えなければそれで善しとするのだろうか。私が最も自覚しなければならないことは摂理に対する切実感だ。願われて託された私のみ旨、そして氏族復帰に対する切実感だ。その切実感があることが私の中に御父母様を迎えているとも言える。

0 件のコメント: