2014年9月14日日曜日

今日の想い 785

第4アダムは私達なのかという問いは、第4アダムの概念が自分の中に無ければ問うことはできない。同じように、自分は氏族メシヤだと言い聞かせようとも、氏族メシヤの概念が自分の中に無ければ氏族メシヤの自覚に至ることは無い。ここでもアダムエバが犯した罪を再度犯すかも知れない状況に皆が置かれてしまう。それは神の如く賢くありたいという欲望を神様抜きにかなえようとしたエバの罪の如くであり、或いは時ならぬ時に時の行為をしてしまったアダムの罪の如くでもある。要するに本来の意味するところの概念を今理解したいと思って自己流に解釈してしまおうとする罪であり、概念がわかったつもりでそれを判断材料として行動してしまう罪だ。御父様のみ言葉は平易な言葉で述べられているにも拘わらず難解を極める。それは悟性ある者として論理で理解することに慣れてきた立場からすれば首を傾げるばかりだ。またみ言葉を論理でのみ理解するものと思っていればみ言葉の本質からずれていく。クリスチャン達が再臨されるメシヤとしてのイメージを固めていて、そのイメージにそぐわない御父様だったから受け入れることができなかったように、第4アダムとしてのイメージ、氏族メシヤとしてのイメージが既に輪郭をもって私の中にあるとするなら、それは御父様の意図される概念に合致するものなのかどうか、もし合致しないのであれば思い込みの迷宮に嵌り込み、願いとは異なる方向に向かいかねない。それは、わからないのならいつまでも動けないのでは、、と言うものではなく、氏族伝道もすべきであり祝福も勿論すべきだし、そうしながら氏族メシヤとしての私の自覚を御父母様に尋ねて問いながら前進する以外ない。その過程でイメージは次第に固まっていくものであって、先ずイメージありきではないはずだ。同じように第4アダムについても、私たちこそが第4アダムだとみ言葉に示されているとしても、今の時点で私が第4アダムのイメージをとらえること自体に無理がある。御父様御存命の間に口にして残しておかなければならないみ言葉であったから残されたものが多くあり、それは今の私達の心霊基準からして把握できるみ言葉ではないにしても、それでも口にして残されたという事実は将来的に必要になるからそうされたのであろうし、であれば私達の今の基準で早急にイメージを固めるべきではない。その意味で川のように流れる問いかけが必要なのであり、み言葉を訓読するとは問い続ける私、すなわち私はわかっていない立場だという謙虚さを失わないように尋ね続ける私を供えることだと思っている。第4アダムであるとか、第4イスラエルであるとか、蘇生、長成、完成の三段階を経て4数の位置で理解できる概念であるなら、間接主管圏の域から脱していない位置でその概念を受け取れると思わない方がいい。私が成長すれば概念は向こうの方から訪ねてくるものであって、無理矢理悟性的論理を駆使して理解に漕ぎ着けるとしても、本質を忘れて概念の鞘だけ受け取って自己満足するに留まる。み言葉を研究するなと言っているのではなく、研究の上に研究を重ねる必要があるけれどもしかしその動機が自己満足的であってはならず、あくまで心情を尋ねる姿勢をどこまでも失わないことが大切だ。

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