2007年3月7日水曜日

罪の認識

ある代理店にいた頃の話だ。自分は営業の方はお手上げ状態だったので車の運転が仕事の殆どで、展示会ともなるとお客の送り迎えで一日中走りっぱなしだった。展示会は何度も行われたが忘れるに忘れられないと言うか、非常に心痛い展示会の事件がひとつある。その時の会場は急な石階段が二百を超える小高い丘の上にあった。他のいろんな会場もあたって見たようだが、結局不便なそこを取るしかなかったようだ。そこは稲荷神社の会館で、こんもりとした木立に囲まれていて市内とは思えないほどの静けさだった。その空間だけがこの世から隔絶されたような雰囲気で、その時の何とも不思議な感覚を覚えている。御社自体もそうだが会館も目が覚めるような朱塗りで、それに触発されたのか今までの展示会とは違うテンションを皆持っていた。悪く言うと浮き足立った感じである。社と会館でくの字に囲むその中央に、立派な庭園と池が配されている。その時の展示会はどういう訳か客の集まりがとにかく悪かった。昼過ぎても片手で数えるくらいだったと思う。事件が起きたのは私がその中の一人の客を隣町まで送っていく間の出来事で、その送った帰り、車を降りて石段をあがろうとした時上の方から一人の姉妹が形相を変えて転げるように降りて来た。それに続いて一人の兄弟が腕に子供を抱え、靴音をばたばた立てながら口を大きく開けて降りて来た。抱えていた子供の右腕が無造作に踊っていた。とてもどうしたのか聴けるような雰囲気ではなく、私に目もくれず車にその子を押し込むと、エンジンをふかして走り去った。自分は上まで急いで駆け上り、受付の広間に入って見ると皆は狐につままれたように黙って立ちすくんでいる。目立たないように隅の方に立っている兄弟のところにいき、初めてことのいきさつを聞いた。目をはなしたすきに一緒に連れて来ていた子が池で溺れたというのだ。その時はまだ、子の親は何も知らされず会場の中で商品のはなしを聴いていた。会場を離れる前の浮き足立っていた全体の雰囲気が一変して、奈落に落とされたような状況になっていた。親であるその客に、その旨を伝えなければならない。当時の責任者の心の重みは察して余りあるものがあった。その客を連れてきた姉妹がゆっくり見ることが出来るようにという配慮で、その子を預かることになったらしい。しかし次の客の手配やら事務処理やらで預かったことを完全に忘れてしまったのかどうなったのか、しかしもはやそれを尋ねる意味は無かった。誰かがそういえばあの子は、と口にした時にはその子が誰の視野からも暫く消えていたらしい。皆が大騒ぎになりながら建物のなかを探すがどこにも見当たらない。まさかという気持ちが皆にあったがそのまさかが現実のものとなる。池の端っこのほうに小さな身体を目にすることになる。病院に連れて行った時には殆ど困難な状態だったらしい。心拍だけは何とか取り留めたが意識は最後の最後まで戻らなかった。その事故から40日目にその子は短すぎる生を終える。その間、ある姉妹が親と子に付きっ切りで世話をしていた。その献身ぶり故に親としては気を静めざるを得なかったのだろうが、本当に悔やんでも悔やみ切れなかったはずだ。自分も若いうちは思い出すこともなかったが、子を持ってからは事在る事にそのことを思い出す。その痛みややり切れぬ想いはいかばかりだったか。その子の名を呼び続け、手にしていた玩具を涙なしには見れなかっただろうし、自分の命と引き換えに出来なかったのかと自分をも恨み、親故の無き子への想いを背負い、残された者の遠い道のりの一日一日はどれだけ長く感じただろうか。堪えられぬ感情を生涯抱き続けて癒されることはないのかも知れない。そこに少しでも想いをやるなら、子を持った立場で申し訳なくて申し訳なくて仕方がない。我々だけが苦労しているという意識は全く間違っている。それがみ旨に関して間接的では在ったとしても、我々以上にサタンと神との攻防戦の荒波に飲まれながら辛苦を味わわざるを得ない者たちの少なからずいることを忘れてはならない。我々の足りなさゆえに多くの犠牲を強いられている。そういう者たちこそ本来救いと祝福にあずかるべきなのだ。彼らを置いてさも当然で在るかのように祝宴の場に顔を出す我々は、神様の心情の一片も知らない恥知らずな連中に過ぎない。何とか機会を作って許しを乞う為にお会いしたいと思っている。このままにしておくのは本当の罪であり心情蹂躪ではないかと思う。

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