2007年3月25日日曜日
仕事に対する絶対信仰
経済とは肉体に於ける血液循環のように国や世界の循環系をいう。血液は循環しないとその働きがなされないように、金も回っていかないと経済の活力は出てこない。それぞれの臓器が他の臓器とどういう関係性を持っているかを考えると、個人や会社が、ひとつの社会的組織として社会の中でどういうスタンスを取るべきなのかが見えてくる。どの臓器だって自分が全ての血液を我が物にしようとはしない。全体にとって良くないだけでなく自分にとっても破壊行為となる。そう見ると経済活動に於いて儲けだけに専念するという行為が破壊行為に繋がるというのは簡単に納得できることだ。我々の組織が儲けた金を捧げるのであるからどこよりも公的団体である、そう認識するのはある意味詭弁だろう。そうであると断言するなら最初から経済活動などせずに銀行強盗でも何でもやればいいということになる。客に向いては内心金を出せと叫び、天に捧げる時は敬虔な心を持つ、という使い分けが出来る人間を私は信じることができないし、そんな人間もいないはずだ。下を向こうが上を向こうが為に生きる気持ちを変えたいとは思わない。この世に於いて、大小に関わらず残った会社や店は公的貢献度がそれなりにあると社会に認められているから残っているのだ。確かに癌と呼ばれるような会社や団体もある。しかしこれだってある意味社会に貢献はしている。全くの善の貢献ではないけれど必要悪というものも堕落社会にはある。それにひとつの事業体が最初から公的意識に立って出発したというものは先ずない。最初は自分の為生活の為の出発がある。そのレベルからその事業体で働く従業員の為という意識に変わってくる。さらにレベルが上がると客の為まわりの社会の為という意識、さらに向上するとより大きな公的意識にと事業体として目覚めていく。その段階で儲けという意識は影をひそめ、社会への貢献度を喜びとするようになっていく。自分がレベルを上げることによって事業体もレベルを上げていく。逆に事業体がレベルを上げることによって自分も引き上げられる。位置が人を創るというように会社や事業団体が従業員全体のレベルを引き上げていく。為に生きる、というみ言を文字としてだけ捉えている兄弟は、是非会社でも起こして生活として実感としての為に生きる歩みをなして欲しい。御父様が僕の僕から出発されたように、自分の商いでも始めて客にとことん侍るところから出発すべきだろう。私達の事業体が、世間が見ている御父様のイメージを左右するかも知れない。そうであるならどこのどんな事業体より為に生きている、社会に貢献していると、誰もが認め得る事業体にすべきではないのか。為に生きればこそ社会に貢献すればこそ金はだまってても回ってくるという絶対信仰を私達事業体を預かる兄弟は持つべきだと思う。自分はそう信じたい。
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