2007年3月15日木曜日

力の源泉

高校三年の二学期、同級の生徒は最後の追い込みをかけていたが、自分はどうやって親を説得しようかそればかり考えていた。安い下宿に一人住まいであったので、すでに何度かは教会に行って教会活動している兄弟達と寝泊りしていたこともあった。二年生の夏休みに三日修に参加し、三年の夏休みには七日修に参加した。そのあたりから子供の様子が変わってきたことは親も感づいてはいた。年に数えるしか会ってはいなかったが、会えばそれとなく教会の話もしたし、卒業したら教会に行くことも告げていた。しかし卒業が間近になってくるとさすがに重い空気が両方を覆ってきた。そしていよいよ荷物をまとめて教会に行くという時、親は下宿先に尋ねてきた。その時の事を思い出すと今でも涙が止まらない。ぼろアパートの四畳半、電気炬燵しかない部屋で父と母と私、三人ですわり、父は今まで尋ね続けたことをまた問う。(どうしてもいかにゃならんのか?)田舎の者は言葉数が少なく、それに対して私はうん、としか答えない。父はその返事が全てと捉えて、それ以上敢えて説得しようとはしない。後は沈黙が流れるだけだ。父はその場のどうすることも出来ない状況に堪えられなかったのだろう。世話になった下宿の大家との話があると言って父は腰を上げて出て行ってしまった。父が出て行くのを視線で見送って、母は田舎から持参してきた風呂敷包みをほどくと田舎で漬けた漬物を私にすすめた。勧められるままに一つ二つと口にする息子の顔を、母はしばらく見ていた。母の唇が震えているのを上目遣いに見て取って、ちゃんと説明すべきだと思った。しかし、直ぐ帰ってくるからと言い伝えるのが精一杯だった。母は何も言わずに湯のみを片付け、戸口の横にあるシンクに立って洗い始めた。と同時に嗚咽が始まった。最初は遠慮がちだったのが、どうにもこらえ切れずシンクに両手をかけてすすり泣く。何度か落ち着こうと洗い物を手にするらしいが、崩れ折れそうな小さい体を支えるのが精一杯のようだった。つらかった。震える母の背中を見続けるこの時が一番つらかった。でも乗り越える最初の峠と言う自覚があった。体を硬直させて堪えた。身動きしたら自分の心の方が崩れ折れそうだった。震える母の小さい背中にごめんごめんと唱え続けた。今の今まで、自分が救われたいと思って歩み続けた訳ではない。高邁な理想に夢を抱いて歩み続けたのでもない。神様の存在が確信できた時、自分は既に救われていた。のちどんな責め苦に会おうと甘受できるとその時は思った。ただただ苦しそうに死んでいった祖父を救いたかった。苦労の耐えない父や母を救いたかった。ただそれだけ。貧しくも病と苦労を背負い続けた、祖父と父と母の小さい魂を救いたかった。だからここまでこれた。この信仰背景の全くない私がだ。どんなに目標をたてようが決意しようが自分事にとどまるのであれば達成は出来ない。数字を与えられると走れる単純な存在ではない。ひとは為に生きる存在だ。為に生きることでしか力は出ない。愛を動機とする為に生きることでしか、私は生を繋げない。

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