2007年3月12日月曜日

堕落性本性

日本で言うアベルカインは御父様の意味するところと大きく違う、というのは前から聞いていたが、中心者とその下にある兄弟との関係の意味合いとして捉えられていたと思う。中心は絶対で兄弟は完全なる自己否定を要求されるというものだが、多かれ少なかれ、日本の組織のすべての上下関係でそういう状況はあった。上の位置にあるものとして多分に権威を笠にして、力で下を押さえつける。軍隊的組織では効を為すのかも知れないが、会社組織を含め殆どの組織でこのやり方は通用しなくなってくる。日本や数十年前の社会では有りなのかもしれないが今は反感を買って組織としての体をなさなくなる。店に於いてもシステム上、それぞれのデパートメントで中心的位置を立てるのだが、多くの兄弟はその位置への適応性を欠いている。旧日本的なその頭があるから采配したりオーダーを下したりする場合、自然と高圧的になってしまう。全てが命令調になってしまう。要するに頼み方が直線的で配慮するという感覚に欠けている。それを受け取る者は全く面白くない。そのうち皆が距離を置くようになり、位置は与えても四面楚歌状態だ。言っても誰も聞かないしついてこないから自分はその位置には立てませんと言いながら、自分に問題があるとははなから思わない。配慮ある言葉を使うこともそうだが、先ずその前に配下のひとりひとりと信頼関係を構築する必要がある。アフターファイブに一杯飲ますとまで行かなくても、店の中だけで十分信頼関係を作ることは出来る。何か作業をしていたら側に行って手伝うとか、頼みごとをして聞いてくれたら感謝の言葉を添えるとか、暇なときはパーソナルなことを言ったり聞いてあげたりするのもいいかも知れない。場合によっては上司に対する愚痴だっていい。とにかく自分はお前の味方だと思い込ませる。それは言い方が悪いが要するに愛する、為に生きるということだ。その信頼関係が出来ないうちに何を言おうが聞く耳もたずだ。その辺の人間味のある温かみのある接し方が不器用だ。愛の群れであったのがどこで方向を間違えたのだろうと思う。勿論自分にもその辺の弱みの認識はある。だから従業員の言葉は謙虚に聞くべきだと思う。責任者として従業員と接するとき、驕りの気持ちが隠れてないか言葉に相手を思いやる気持ちが添えられているか、確認しながら事に当たらないと、気を許すと堕落性本性や相手への無知が顔を出す。

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