2007年3月2日金曜日

天地自由人

貧乏暇なしと言う言葉がある。毎日毎日生活の為朝から晩まで働いているので時間もなければ金もない、と言った意味合いだろうか。ああ本当にそうだ、と感じる人は限りある貴重な人生の日々をどぶに捨てている。その事に先ず気付く必要がある。生活することそれ自体が目的ではない。勿論食べる為に生きているのでもない。そのあたりの感覚はあるし自分は違うと否定すると思うが現実そう成下がっている。毎日のスケジュールをこなすことで満足している。これではいけないと最初は思う。しかし周りからそれに対して非難を受けることはない。家族だって何も言わないだろう。そうなると自分を許してしまう。そのうちこれでいいんだ、と自分を納得させる。成長することへの願望や自分を見つめる感性が失われていく。スケジュールをこなすだけの機械人間はそのうち機械に取って代わられ、ゴミになる。貧乏だから暇がないのではない、暇がないから貧乏なのだ。暇というと語弊があるが余裕といえばいい。働く以上は時間に拘束されるというのに余裕など持てるか、そうではない。その発想自体が完璧に拘束された人の発想なのだ。どんな事情圏環境圏であれそこで学ぶことは山ほどある。為に生きることもできる。接するもの全てを愛することもできる。如何なる行動も思考も価値創造の手段となる。今自分が立っている外的位置、内的位置を起点として左右上下前後全方向に無限大の可能性が隠されている。その認識を得ないと事情と環境は自分の檻としかならない。自由の意味、余裕のある無しの意味はその認識を得て初めて理解できる。条件を立てる、しかし条件を立てること自体が目的ではない。祈る、信仰的といわれる言葉の羅列が祈ることの意味ではない。教会に行けと言われる、しかし教会に行っていればいいと言うものでもない。献金する、要求され皆もやっているから献金する、そこに神様の為にという想いが込められずに何の意味があるのか。我々の全ての行い全ての思考に自由も余裕もない。事情と環境に振り回されているだけのことだ。真の父母に近い立場の我々が本当は最も遠い存在である可能性もないとはいえない。信仰観念が固定されてしまって見る目聴く耳を持たない。目と耳がない不自由な人間なのだ。時間的余裕が本当に必要であると思うなら時間に拘束されない仕事を選べばいい。何の職につこうが生活を支えることを一義的にしてしまうとそれ以上の意味は見出せない。最初はそうであったとしてもその社会的行動が魂との関わりとして次元を高めていけるように、高める為には自分を深める必要がある。仕事を通して祝福家庭の本分を発揮する、ぐらいの気概は持つべきだ。そういう意識と意思を持つことによって初めて自由人となる。

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