2008年1月18日金曜日

故郷

四方をなだらかな山々に囲まれた郷土は、その周りの町や村とは変わった趣がある。中国山地の山並みに埋もれる盆地のその中で、子供の頃は下界の街のことは何も知らずに生きていた。そこは明らかにその周りの環境や状況とは異にしていた。小学校に入った頃トンネルが開通し何処に行くにもそこを抜けていくようになったが、盆地というどんぶりの中と外では五感を超えて感じる何かが違っていた。背中に何か気配をいつも感じて生活していたし、開放感という言葉の意味がわからないほど身体全体に或る縛りを掛けられて暮らしていた。しかしそこの空気を吸い水を飲み、飯と菜っ葉の漬物で育った自分は郷土の空気と水と土で出来ている。年を経るに従い土塊(つちくれ)の記憶や想いが多くを語り始める。川や雑草や田畑の匂いが全ての記憶を再現する。昨日何を食ったかは忘れても、遠い昔に膳代わりの木箱から茶碗を取り出し、御粥を注いでもらって口にしたときの感覚が昨日のようにありありと現れる。全てが質素だった。夢や希望を持つことさえも贅沢に思え自然の力が生活することの大半に関わっていた。春には雪解け水が鈴のような音をたて流れ始め、フキノトウが雪を割って頭を覗かせる。目に確認できる勢いで出てくる様子に生命の息吹を受け取る。初夏には草木が何の遮るものも無く繁殖し青々と葉を広げ始める。そしてその生命力を抑えきれずむせるほどに匂い立つ。夏も濃くなると容赦なく浴びせる太陽エネルギーを持て余し、広げた葉が熱で焦がれ始める頃合には夕暮れに差し掛かりヒグラシが鳴き始める。その音色の波長は万物の内に染み入り篭った熱をしんしんと冷ます。そして秋になるとそれぞれのひと夏の人生の実りを、万物それぞれの色合いと形で宇宙に差し出す。冬には霜が降り、雪が舞い、全てが雪に覆われ生命が閉じられると、万物は内なる思考を始める。内的準備のこの思考期間を与えられる草木は熱帯のそれより神霊に満ちている。四季の流れの中でそれらの存在に埋もれていると万物の力に劣る人間の弱さが否応にも指摘される。万物の神霊に満たされる人間ではなくその生命力に圧倒される村の人々でしかなかった。当時の住まいも自然に苛まされ、どこの家屋も夜露をやっと凌げるようなものだった。雨が降り始めるとわらを広げたぐらいの隙間だらけの藁葺き屋根はあちこちで雨が漏る。夏場は気味悪い虫が所構わず這い回る。すすけた天上に何か光るものを確認したかと思うとそれがゆっくりと垂木にそって移動し始める。日の光が届くところまで移動してやっとそれが何か確認できた。太い長いものが柱に巻きついていた。冬の吹雪く日は寝間の中まで雪が入り込み、軒下までの積雪であばら家はミシミシと音をたてた。そんな自然脅威の中で、自然に圧倒され自分の表情のなかに笑顔はなかった。いつも怯えて暮らしていた。今も故郷を訪ねるとその時の空気感が思い出され身が竦む。この歳になってある程度の知恵がつき、改めて故郷を観察すると、神様も手を付けられずサタンも手付かずの自然の摂理だけがとうとうと流れていた。その流れの中で息をすることで精一杯の状況の自分にも、神様も距離を置かれサタンも手を付ける意味もなく、うまい具合に忘れ去られた状況に置かれた自分がいた。

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