2008年1月26日土曜日

祖父

60を過ぎた辺りから祖父は病のため寝付くようになった。それで身体を動かしていた頃の祖父は自分が幼少の頃の姿しか思い出せない。その当時祖父はいつも土間で作業をしていた。冷たい隙間風をてっこう(薄手のドテラ)で凌ぎながら、薄暗いそこに藁を敷いて藁草履やら大小の木桶やらを黙々とこしらえていた。よく側でナタの刃渡りの鈍い光が薄暗い中に踊る様をずっと見ていたりした。小さい私が祖父の膝の上で抱かれている景色が遠い過去の片隅にはあるが、良くしてもらったり祖父の口で褒められたことは殆ど無いと思う。顔を合わせれば小言ばかり口にしていた。しかし手を出すようなことは一度も無かったしその小言も可愛い孫に直接甘い言葉をかけるのが気恥ずかしく、かと言って接触も持ちたいその気持ちが小言を口にさせていたのだと思う。だから自分に取って祖父の小言は嫌なものではなかった。妹が生まれた頃母はそちらに掛かりっきりになり、私は仏間で祖父と寝起きした。ある日何か悪いものを口にしたらしく夜中に気持ち悪くて目を覚ました。祖父に告げると急いで洗面器を持って来てくれた。身体を傾けながら横になった状態でもどそうとすると起きてやれと命令する。言われるままに起きてもどそうとすると、そんな姿勢ではなくちゃんとかしこまって手を膝に置いてもどせと言う。つらく身体に力が入らなくて大変なのにと思いながらも言われるままにした。しかし姿勢を正すことで気持ちがシャンとし、そうすることで吐く事への覚悟が出来た。子供心に侍が腹を切るとき姿勢を正す意味がわかったと思った。しかし祖父に教えてもらった思い出せることと言えばそのくらいである。晩年祖父は身体を悪くしてから日に何度ももどしていた。厠の便器の前にひざまずき経を口ごもりながらその苦行を何度も何度も受け入れていた。二度の出兵で弾を受け、娘(私の母)を産み終えたばかりの妻を失い、再婚もせず二人の子を育て上げた祖父はひたすら耐えて生きてきた。側で祖父の笑った顔を見たことが無い。しかし教会に献身してしばらく、数年をして帰郷したおり祖父は頭をすでに病んでいた。コタツにうずくまり久方ぶりの孫の顔を前にして憑かれたように笑い転げていた。母が私に(今日はよう笑ろうとる、ほんまに嬉しいんじゃ)と告げた。自分も嬉しいのか目頭が熱くなった。祖父はやっと笑うことを自分に許したんだと思った。

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