2008年1月22日火曜日
万物復帰
献身してビジネスらしいものを担当するまで万物復帰に明け暮れていた。その当時、或る時点に於いて突然手の平を返すように天国は出来るものと信じて疑わなかった。それは私だけではない。殆どの食口がそう信じていた。その日その時までこの活動をし続ける運命にあると思われた。最初の頃は新鮮さもあって走り続けた。しかし元来人と接することに極めて臆病な性格である。そう長くは続かなかった。それ専門の部隊に入ってからは成績順位最後尾を頑なに死守し続けた。この単純な歩みがどうして出来ないのか。真面目にやれば実績はそれなりに出る。しかし自分には苦痛以外何物でもなかった。硝子細工のような自分の繊細さがそうさせた。自分に対する疑いの表情を直視しなければならない苦痛。相手の目の中に様々な詮索がうごめくのを見、早く出て行ってくれと言わんばかりの完全否定の刃先が自分の胸のうちを突き続ける。その苦痛を日がな体験し続けなければならない。朝の出発は恐ろしくて震えが止まらないし夜には全身創痍で寒気がした。心の血が滴るのを毎日のように味わった。死ぬ気でやれば出来るだろうと発破をかけられるのだが、ある意味そこで腹を切れと言われる方が正直楽だと思った。今でも身体の調子が悪かったり熱を出したりしてうなされると決まって、この当時の夢を見せられる。月一の全員集合でチーム毎の成績発表が恒例だった。成績の順番に立たせられる。最後尾の自分は居並ぶ兄弟の視線をまともに味わう。この時が最高の自己否定であった。これを甘受することで私の信仰はそれなりの成績で安堵を覚えている他のメンバーのそれを超える。その確信を持って最下位のレッテルを自分に貼り続けた。物心ついて以来、神経回路に支障を来たす程生きることの意味を問い続けた。そしてみ言葉に巡り会えた。当時創造の原理は自分なりに捉えることはできたが、しかし罪という言葉が出てくる。自分が罪を抱え許しを必要としているという感覚が理解できなかった。許しを得るための蕩減の歩みである以上、その感覚の欠如は全ての活動をして苦痛以外何物でもない。悪行三昧の成れの果て、この道に来たのとは訳が違う。何度堕落論の講義を受けようともどれ程あなたのここが罪から来るものだと指摘されようが罪の認識に対する疑問は残った。自分の中に良心に恥じる恥ずかしい思いはあっても罪の感覚とは違うと思った。み言葉の本質が入りようも無く、訳もわからず一方的に寄せ集められた群れは神霊とは別のところでうごめく唯の無知なる烏合の衆でしかなかった。イエス様の救いと許しを受け入れ神霊に満たされているクリスチャンとは比べようも無い。自分の霊的背後を整理もされず訳の分からない霊界を抱えてみ言葉の本質を知ることなど許されてはいなかった。しかし忘れてはならないのは自分でも見過ごしている針の穴ほどの一点をご覧になり条件としてご父母様との縁を頂いたという事実だ。その一点にかけられ、地と汗と涙を代価に手繰り寄せられた食口ひとりひとりである。
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