2008年1月13日日曜日

実子としての店

我々の店以外で食口がやっている店も何件かある。経営状態はそちらの方がずっと良かったりする。二件三件と増やしているところを見ると、明らかに我々の店とは気合の入れ様が違うことが判る。なんとも情けない実情ではあるが現実はそうである。では我々の店と他の食口のやっている店の違いはどこにあるのか。それを把握することによって公的な位置を与えられた事の意味を知るようになる。うちの店であろうが他の食口の店であろうが外的には同じ事をやっている。そこでオーナーである食口が信仰篤い人だったりすると我々の店以上に献金してたりする場合もある。献金は少しでも多いほうが良いに決まっている。しかしより献金したからといって天がより関心を持つとは言えない。どんなに放蕩息子で手に負えなかったとしても幾らでも貢いでくれる他人に比べることは出来ない。息子は息子であり他の何にも代えがたい自分と一体不可分の関係にある。銭金の問題以上の関係性が天と我々の店にあることを認識する必要がある。TPの形を変えた真の愛の対象として我々の店はある。ようするに天の主管下にありTPの意識の中にしっかりと位置づけられている。ペーパー上の名義人が誰であるかは意味が無い。他の食口の店が庶子であるなら我々の店は実子である。TP直接の愛の主管下にある。それを理解すれば店に対してどういう意識を持つべきかは自ずとわかってくる。本部のやり方が悪い、我々への待遇が悪い、解かってくれないとぼやく前に天の店の本質的価値を認識し自分は任せられたものとしてどう天の願いに応えていくことが出来るのか先ずその姿勢から正す必要がある。

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