2008年1月9日水曜日

言霊

言霊という言葉がある。言葉に霊が宿る。霊が言葉となって現れる。どういう言葉を口にしているかで自分の霊的背後を見ることが出来る。敢えて意識してある言葉を口にし続けることでその言葉の霊力を得る。汚い言葉は品性を落とし、美しい言葉はその人を輝かせる。思考は言葉を繋いでなされる。思考することは霊的な創造行為である。人間がこの世に紡ぎだした物で思考を伴わずに出てきたものはひとつとしてない。一生懸命やっているが結果が出てこない。我々の今の状況だ。生み出せない原因は思考停止にある。やっていることの意味を思考する、考える必要がある。自分の中で納得が為せたとすればすでに結果は出ている。要するに理解できない、自分のなかで腑に落ちない時点では結果はありえない。我々はみ旨というとてつもない願いを受けて集められ活動している。この世で使われている言葉ではその創造活動は出来ない。み旨を為すに於いてみ言の理解は不可欠となる。その理解度が歩みの価値を決める。何度も何度もみ言葉を訓読しながら、深く深く祈祷をもって神霊に辿り着くとき父母様が勝ち取られたその言葉の霊を父母様と共有できる。祈っても祈っても手がかりが掴めず、砂漠を歩き続けるように悶々とした過去は誰もが経験している。しかし後天開闢の時代に既に入った今、全ての神霊は地上人の目線にまで降りている。霊視できるとすればその視界は一変している。雪国で育った自分がその状態を譬えるならダイヤモンドダストを目にするようだと表現できるだろうか。冴え渡った冷気が吸い込まれるような青空一面に煌く様は思わず息を飲む光景だ。心を空にして尋ねれば煌く光の冷気を呼吸するように言葉の意味が染み入る。神霊の溢れた言葉をもって歩みの動機とし、肉体や感情体で経験する事柄を神霊の溢れた言葉で浄化して天に報告する。

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