2008年8月31日日曜日

感謝意識

人間は自我の存在でありながら、自我から発信するものに沿って生きようとする意志を見出さぬまま、自分の生を送る人のほうが圧倒的に多い。自我と言う人間一固体の根源を確認できず、自我から発信するもの意外の要求を自我の要求と勘違いしている。どんな些細なことであっても行動要求の一つ一つが他の何かから強制的に思わされている。自我のままになる自由な魂、自由な肉体ではなく、他の何かに躍らされている。魂も肉体も人間の根源的存在である自我との結びつきが薄い。瞑想し祈ることで肉体から魂へ、魂から自我へと意識の糸は繋がれ本来あるべき関係を太くしていくのだが、他の何かに躍らせれている自分をこれこそ自分の本質だと思わされているから瞑想しても瞑想できないし、祈っても祈れない。休むことの無い自己弁護の魂の働きだけが堕落した人間存在の基本にある。言葉にならない魂の活動は始終言い訳で溢れかえっている。そこに自分の本質である自我は隅に追いやられ、本来自我の活動舞台である魂も肉体も偽りの自分に占領されている。神様に直結している自我はその活動を阻まれ自分の中で仮死状態にある。御父母様が開闢時代を迎えたと宣言されたことが地上天上のあらゆる人間に取ってどれ程奇跡にも近い祝福であるか。長い歴史を経ながらこれまで幾人かの聖人たちが自我の覚醒を果たし、彼らが人間本来の自我に備わる神性の一端を現し、それによって人類は聖人たちが現した神性の分霊を戴くという恵みに与っている。聖人たちが現れる前と後では人類の魂の在り様も身体の在り様も違う。特にイエスキリストが人間として肉体を持って地上に来られたことで人類の自我は大きな覚醒を得ることが出来、今ある魂や肉体の在り様が人間本来の在り様と違うことを認識することができる。即ち罪の自覚を覚える。地上に於ける一人の勝利的功績でその方の高みまで人類は霊性を高めることが出来る。更に二千年を経て真の父母を戴くことで自我に備わる霊性は魂や肉体を凌駕できる高みまで届けられ、神様が本来願われた創造本然の在り様に人類も宇宙も再生される。普通人としての為すべき取っ掛かりは先ず自己弁護に翻弄される魂の在り様に気付くことだ。そしてそのような魂の中に、感謝の意識を少しずつ少しずつ植え込んでいくことだ。感謝の意識が大きくなっていくことで偽りの自分である自己弁護に対等することが出来る。出来ないことに悩み言い訳をする自分の一面は、たとえ無くせ無いまでもその意識に振り回されず、出来ること、より感謝することに意識を置き重心を移す。出来ないこと自己弁護、そしてどっぷり浸かっている環境に執着すれば今まで支配され続けてきた(サタンを根源とする)偽りの自分の思う壺だ。感謝の意識の中にこそ神様が具体的に働くことができる。僅かの意識転換が大きな意味合いを為すのが後天開闢時代だ。今は天国も地獄も手に届くところにある。

2008年8月30日土曜日

移民法廷 2

柵の開きを開けようとしたが引くのやら押すのやら。手こずっているのを見かねて弁護士が押し開けてくれた。どうも焦っているらしい。入るべきではないところに足を踏み入れた、そんな感覚だった。右手を上げて誓いを立てるよう要求させられた。上目遣いの裁判官が私を見据える。目の前にすると裁判官の容貌がジャックニコラスに見えてきた。緊張しててもこんなことが頭に浮かぶらしい。日常会話でさえ英語の理解は難しいのにこの場で何を尋ねられるやら、早口で喋るジャックニコラスの口の動きに集中した。名前は何か役職は何か本人とどういう関係にあるか、そこまでの質問の意味は理解できた。しかしその後の質問の意味が良く解らない。YESNOで応えることだけは解った。もうこうなったら二つに一つ。さも解ったようにNOと応えた。弁護士がたじろいだ。YESと言うべきだったようだ。急いで質問の意味がよくわからなかったと裁判官に告げた。ジャックは今にも立ち上がらんばかりに意味が解らないのに応えるなと強く忠告した。もう一度同じ質問を繰り返した。YES。今度はOKらしい。どうもNOという応えは無いらしいと解るとそれからは質問の意味は解らずともYESと言い続けた。長い証言のように思えたが三分もその場には立っていなかったと思う。ジャックが退廷して宜しいと許しが出、やっと度胸試しから開放された。その従業員も私の英語力の無さはよく知っているだろうに、と彼を責めたい思いもあったが事無きを得、不法滞在の罪は消えた。入国当時、彼の国ではコミュニストゲリラとの内戦状態であった。永住権は既に取ってはいるが、ゲリラ活動に参加した疑いが今になって出、それに対する潔白の審議だったようだ。両手では数えられぬほどこのビルに足を運んだらしい。今日が最後だろうと安堵した表情をしていた。それは良かったと一応喜んでやったが、雇い主として内心素直には喜べなかった。ビザの問題が解決すれば何処で働こうが彼の自由だ。

2008年8月29日金曜日

移民法廷

或る従業員に頼まれて移民局の法廷で証言することになった。提出書類を確認する為のジャッジとの遣り取りで、形式的なものだからということだったので、軽い気持ちで同行した。ボルチモアのダウンタウンに移民局の建物はある。かなりの大きいビルで4階にあるいくつかの法廷の一室に通されたが、裁判所のそれと何ら変わるところは無い。流石に不安がよぎってきた。このビルの8階に連れて行かれる者は既に国外退去が決定された者だそうだ。そう従業員が小声で説明してくれる。千スクエア位の部屋は法廷らしく柵で仕切られ、自分は傍聴席に腰をかけるように言われた。従業員の本人と彼の弁護士は腰までの高さの柵の真ん中の開き戸から入り、向かって左側、柵を挟んで私の正面のテーブルに腰掛けた。後ろのドアが開いて三十前後の背の高い青年が入ってきた。紺のスーツが様になっている。見るからにイケメンの若手事業家の風だ。その彼は柵の中に入ると右側のテーブルに席を取った。弁護士と顔見知りなのか笑顔で軽い話に花を咲かせていた。弁護士の話の相手をしながらも、持ち込んだ分厚いファイルを片手で素早くめくりながら確認しているようだ。定刻になると正面右に位置するドアが開いて制服姿の男が開廷を告げた。皆が起立するのに合わせ私も立ち上がる。法衣を着けた裁判官が急いで入ると正面の一段高く設えてある重厚な机に腰掛けた。座るや否や手早く進めるからと声をかけ、弁護士もそう願います、見たいな感じでうやうやしく返答した。どうも右の青年は移民局の審査官らしい。裁判官が今までの流れを説明すると弁護士に付け加える事があるかと目配せして問う。弁護士が付随する事柄の無いことを確認すると、こんどは視線を審査官のほうに向け貴方はどうかと問う。何度か首を傾げる様子を示したが何とか納得したようだ。審議に入る前、余りにもフランクに弁護士と話していたからその様子を不思議に思った。これで一件落着かと思ったところに、裁判官がウィットネスを要求した。弁護士が私に目配せするのでどうも自分の出番らしい。かつて経験が無い為、緊張の度合いは一気に高まった。

シックビジネス

主人意識と信仰観とは直接関係は無い。会社のオーナーが御父様であるとしてオーナーリターンこそ為に生きることだと言われても説得力に欠ける。御父様は利益が欲しい訳ではない。摂理を進めるために必要ではあるけれど金さえあればどうにでもなるというものではない。差し出したものを喜ばれるのではなくそれに費やした精誠を受け取られる。だから例え主人意識を持ってビジネスを発展させ大きな利益を生み出したとしても、そこに御父様に対する精誠が見られなかったら手を付けられることは無い。主人意識が自分を中心としたものから出てきたのか御父様に侍る想いから出てきたものか、それによって内的霊的に天地の違いが生じる。一方はサタンが取り今ひとつは神様が取って下さる。一方は死んだ利益や金であり今ひとつは生きた霊的価値の或る金の形をした精誠条件である。その違いをはっきり教育できないところに本部の責任はある。現場に於いて営業しながら扱う金がどういう種類のものか、どう扱えば生きた金に生まれ変わるのか、それらを知る霊的感性を教育すべきだ。先月、ロシアから来ていると言うSTFの若い姉妹が店に訪れた。はっきりと教会の名前を出して万物復帰をしていた。ここがどこかも知らず一生懸命説明していた。教会を知らない従業員は品物が高いとか口にしながら背を向けるのは理解できる。しかし理解できないのは何人か働いている兄弟だ。下を向いたまま関わろうとしない。自分も教会員であるから敢えて彼女を通して献金する必要はないと思っているのだろうか。ただ単に自分はそんな持ち合わせは無いから笑って誤魔化したのか。その光景を見て情けなかった。無いなら無いで励ましの言葉をかけてやるなり、買えないけれどとことわって一ドルでも二ドルでも足しにして欲しいと渡すなり、何かしてあげようと揺さぶるものは心の中に無いのだろうか。ドアツードアをやった経験があるならそれがどれだけ大変なことか知っている。そこに精誠の強い想いが無かったら出来ることではない。兄弟の多くは信仰観が形式化してしまっているように思う。その在り様に瑞々しいもの熱いものを感じない。形式化惰性化した砂を味わうような生活の中に御父母様と共にある神様と共にあるという実感はないと思う。それは神様も可愛そうだが本人も可愛そうだ。そこに気付きが無いなら物は物でしかないし、金も物でしかない。そして自分も物でしかない。

2008年8月28日木曜日

食口ビジネス

一つの事業を任され運営していく上で、その事業なり会社は任されたものが主人意識を持たない限り続きはしないし発展することは無い。主人意識、即ち自分の事業であり会社だという思いはそうであるけれど、自分、という意識は兄弟それぞれに於いて理解度や認識が異なる。責任者である自分という存在を個とする意識が強いか、或いは公としての自分が勝るかそのサジ加減によるから、全体を組織立てる上で問題が生じる。本部はそれぞれの責任者にこうあるべきだとの思いがあるかも知れないが、それぞれの自分の捕らえ方はそれぞれの信仰観に拠る為、一様に同レベルに持っていくことは出来ない。まして今まで本部主管でなく、それぞれの現場で問題解決しろと丸投げした時点でそれぞれの凧が糸を切り離すのは時間の問題と言える。だから今回のような悲劇は起こる。本人は当然自分に全面的非があることを認めるべきだが、本部や周りの者は当の本人にだけ非の責任を背負わせることは出来ない。本部の責任であり我々の責任でもある。本部と我々はどういう責任を負うかという問題をクリアしない限り、責任者がそれなりの場当たり的なコメントで濁しておけば組織の中も濁ったままである。私見として言わせて貰えば、食口組織全体に言える事だけれど血が繋がるほどの愛の関係が中心との間も横との関係に於いても薄い。はっきり言って機械的であり有機的情が見出されない乾燥組織である。共産主義体制下に生活したことはないがそれとさして違わないように思う。会議に出ても本部に詣でても生きた人間の息遣いが感じられない。それは責任者を含め誰もが感じていることだと思うが今までの成り行きでその体質は変わりようが無いものなのだろうか。そういった環境圏の中で外的数字だけが判断材料となり内的霊的なものは当人任せとなると行き着く先はそうならざるを得ない。

今日の想い 8

感謝すること。今、与えられている全てに感謝する。全てに感謝しようと思えば、与えられながら与えられていることに気付かない事に対して申し訳ない思いを持つ。だから感謝する想いと申し訳ない想いが相まって生じる。そのような想いに満たされて歩めればどれだけ幸せな人生か知れないが、しかし自分の内面に何かが暗い影を落として感謝の想いを封じる事の方が実のところ多い。それが病であったり思うように行かない不満であったり先の知れない不安であったりする。そういった影の部分に目を塞ぎ遠ざけようとすれば、影は益々その濃さを増す。その影の部分を正視する勇気、寄せ付けない影の只中に飛び込む勇気が必要だ。地上の堕落世界に於いて神がいると同時に悪魔がいる。そう言うと、この科学的な現代社会で戯言を口にするのかと聞く耳持たずだが、自分の内面を観察すれば明るい部分と暗い部分が存在することは誰にでもわかる。この触れたくない暗い部分をどう対処して行くのかが肉体を持って生を送ることの意味を知るかどうかの境目と言える。宗教的に言えば煩悩を断つことに繋がり、サタンを退けることに繋がる。闇のさなかに飛び込み、恐れや不安等の様々な影の感情の化け物に魂が曝されても、光が何かを知る者は目を見開き、嘔吐を催す感情に巣食い暗闇に蠢く正体が見えてくるだろう。貴方や私や普通の人間が、そう思っている幸せも喜びも楽しみもただの幻に過ぎない。自分の内面の全ての領域が光に照らされない限り真の幸福は隠れたままだ。真の幸せ喜び楽しみを求めるなら、忌み嫌い、背を向けて遠ざけている内面の暗黒地帯に戦いを挑まない限りそれは横を素通りすらしない。真理のみ言葉を知る者はその意味で幸いだ。暗黒に立ち向かい戦う術を持っている。しかしそれはあくまで立ち向かえばこその真理であり、目を塞いで逃げている立場では裁きでしかない。

2008年8月26日火曜日

今日の想い 7

食口の多くは、自分のあるべき姿、創造本然の世界、霊界様相、等々に対して自分が想像するものは、本来あるべき様相とは違ったものだと言うことはおぼろげに解っていると思う。しかし人は自分が思念できる範囲以上の内容は理解できない。目指すところの言葉は与えられているけれども、その言葉の意味を探りながら探りながら歩む、即ち目の見えない者が先導者に手を引かれながら歩むのと同じだ。だから我々にはみ言葉が必要になる。み言葉が我々の先導をする火の柱となる。しかし信仰生活が長くなるにしたがって今の自分の在り様以上のものを見出せない。本然の世界がどれほどすばらしいだろうという未知への魅力を見出せない。内的霊的なものより外的肉的なものへの執着の方が大きくなる。だから元の鞘に収まるように、自分の魂の在り様、即ち自分が思念できる範囲に落ち着いてそれ以上向上しない。祝福を受けたことで満足している。より愛の大きい存在になりたい御父母様に近づきたいという能動的想いがない。はなから地獄に行って苦しみたくないぐらいの想いで接しているから御父母様との本当の関係性は築けない。我々はよく原理非原理という言い方をする。或いは教会から距離を置いている兄弟を離れたといったりする。また食口として認めるかどうかの自分なりの或いは全体が認識する型がある。一線を踏み外したり問題が認められると、その型から外れたとして兄弟の括りから除外される。そういった判断と真の愛、為に生きる愛、犠牲の愛とは相容れない。愛の群れでありながらその群れに愛はない。天国人としての多くの約束事がありそれを守ることは至極当然であるとしても、約束事が約束事に終り、天国は愛の世界ではなく約束事の世界なのだろうと本音で思っているところに既に、御父母様とは距離を置いている。

2008年8月17日日曜日

今日の想い 6

オレンジ色に発光した太陽が沈んでいく。雲ひとつ無い空が、太陽から遠ざかる程に益々青を濃くしながら天空を覆っている。暫く見つめていれば、今にもその覆いが下って来て自分に迫ってくるような、或いは逆に自分が吸い込まれていくような錯覚を覚える。天空の覆いの中に自分を埋める時、霊界ではその様であろうと思われるような感覚を感じる。この世で全ての視覚対象は物理的存在として実証できる対象物だ。しかし天空に目をやるとき、雲であるとか空気に反射する青色を見るとかは気体対象物ではあるとしても、それを更に超えて広がる宇宙に視線を向けている。手の届く対象物から反射光を受け取るのとは違う、視覚で受け取れないものを捉えようとしている。魂の存在、死後の世界を認めることが出来ない者は天空を暫く見続けるのが良い。物を視覚に受け取る時と違う感覚が自分の中に芽生えるはずだ。その生じた感覚を影のように意味の無いものとして捉える事を本当に自分は良しとしているのかどうか。唯物論は平面的周りばかりを見て、天空を見ることを忘れた処から発生している。生きることを平面次元だけに捉え、人間は立体以上の次元で生きる多次元的存在であることに気付かない。視覚を失った者に唯物論者はいない。平面次元の生を限定的なものにされたことで多次元に生きることを学ぶ。遠くない頃合、皆が皆視覚を奪われる時は必ず来る。暗黒の三日間が必ず来る。全ての人類が気付きを得る為、天の人類に対する愛の計らいとして訪れる。

2008年8月16日土曜日

今日の想い 5

イエス様の為し得なかった実体的な世界的カナン復帰路程の最終章を御父様は担当されてきた。預言者エリア的存在であった洗礼ヨハネが、あってはならない最初の躓きを見せたように、御父様の路程に於いてもその様で、その為何の拠りどころも無い状況に貶められ、そこからの出発だった。社会的能力に欠け、サタンも意を解さない見捨てられた底辺の人間を集めるしか策はなく、その群れをして摂理を進めてこられた。本来ならキリスト教信徒達こそ集められ摂理の中枢を担うべく、その再臨のため二千年間準備されてきた。我々と彼らとは比べようも無い。能力云々ではなく霊的血筋が違う。聖霊によって新生するという意味がどのようなものか、我々の多くは知らない。イエス様を愛するという感覚を知らない。魂の在り様が全く違う。我々は多くのみ言葉を頂きながら、その本当の意味するところを知らない。み言葉に宿る神霊を受ける器が、我々の魂にはない。聞いているが実のところ聞いていない。共に歩んでいるようで御父様と我々との距離は遠く隔たっている。霊的に無知であることの認識に立たない限り、摂理の入り口にすら辿れない。語られるみ言葉の中に理解に苦しむ多くの表現が見出せる。我々が理解する言葉の意味合いで測ろうとしても答えはでない。論理性で理解するものではなく、霊性で理解するものだ。御父母様を本当に慕うのであれば、侍っていく過程でみ言葉は自分のものとなる。論理を超えた愛の叡智で解釈する術を知る。そこに至って初めて主管性と創造性を相続できる。実力能力に於いて、霊的内容に於いてもあまりにも低い基準でたむろしていた群れが大きく飛躍できる時を迎えている。世界を主管する並み居る人物や組織を凌駕できる時を迎えている。地上天国実現をこの目で確認できる時を間近に控え、真に知恵あるものはその準備に怠らない。

2008年8月12日火曜日

息子

仕事を終えて帰れば十一時は回っている。そんな時間でも玄関を入れば小さな息子のハシャギ声がいつも聞こえている。しかしその晩は違っていた。静まり返った室内に入ると、この世で初めて闇を見るような不安が襲ってきた。既に昼過ぎには店の方に妻から連絡が入っていた。息子が熱を出したようだ。その連絡を受けてから心配で営業にも力は入らず、客への応答も上の空だった。寝室のドアを開けると、妻は生まれてまだ間がない下の子をあやしながらも、すがるような目を私に向けた。息子は一瞬何処にいるのだろうと探すほどに、布団をかけ身動き一つせず仰向いて横たわっていた。半開きの口からは何の言葉も発しない。力の無い目で瞬きもせず天井の一点を凝視していた。駆け寄って額に手をやると、手をかざそうとしただけで明らかに熱い。相当苦しそうで短い息を引きつるようにしていた。危ないと思った。熱で熱くなった小さいからだを急いで抱えて車の助手席に乗せ、ローリーの病院まで飛ばした。直ぐ楽になるから頑張れとハンドルを握りしめながら声を掛け続けたが、気力が無いのか意識が朦朧としているのか微かな返事も返ってこない。真夜中の二車線道路を制限速度を遥かにオーバーしながらもアクセルを踏み続けた。病院にやっとの思いで駆け付けると、救急の出入り口の真正面に止め、車を投げ捨てるようにして子供を抱え室内に飛び込んだ。自動ドアに足を思い切りぶつけたがそんなことはどうでもよかった。只事でない様相に受付係りが飛び出すと、他の患者そっちのけで救急室に直接運んでくれた。興奮状態でありながらも天が助けてくれていると言う思いはあった。ナースが息子の口に差し込んだ体温計はみるみる数値を上げ、120度を超えても更に上がり続ける。ドクターは計る意味もないというように抜き去ると幾枚ものバスタオルを冷水に浸すよう指示をした。冷たく濡れたそれを広げると、ナースが数人がかりで厚着させていた息子の衣類をはぎ取り、小さな体に貼り付けていった。体温の熱で張り付けたバスタオルから湯気が出る。タオルは何度も何度も取り替えられた。ドクターの動作が一段落した頃合、恐る恐る様子を尋ねた。熱が異常に高いので今は何とも言えないという返答だった。少しずつ熱が引き始めたのは数時間たった頃だった。病室に移され熱さましの座薬を入れてから少し落ち着いたのかやっと口を開いてくれた。目にも何とか光が戻り、「大丈夫。元気になった。」と、心配で覗き込む親に、回らない口で何度も何度も声を掛けてくれて安心させてくれた。白血球の活動量が遥かに多いらしく、何かが傷口から、或いは経口からか入ったらしい。その原因が分からず様態も不安定で、それから二月余りも入院したり出たりの繰り返しが続いた。その事が起こる前にも、黄疸に始まりアレルギーで顔を腫らして救急車で駆けつけたり、口に櫛か何かをくわえて走って転んで喉をついて出血させたり、ショッピングカートの中でふざけていて頭から落ちたりと、思い出してみるとこの子は生まれた時から事故や病気が絶えず、親を心配させ続けた。やっと落ち着いてきたと思いきや、大きくなった今も今度は違う意味で親を心配させ続けている。本人は知ってか知らずかいつも親を振り回し、息子によって感情の海は荒れ続ける。親としての試練と学びは止むことは無い。

2008年8月11日月曜日

混乱期に入る

アメリカの経済は過去に例を見ない状況悪化が進んでいる。燃料価格の跳ね上がりがクローズアップされがちだか、それに合わせて穀物に限らずあらゆる食料コストの増加も月を追う毎に顕著になってきた。もはや原油価格がバレル150ドルに届くかと言う状態まで来て先週少々下がり始めたとしても、物価が落ち着きを見せて下がり始めるとはとても思えない。住宅関連の証券に流れていたファンドマネーが行き場をなくしコモディティーに流れてみたり、株の動きに飛びついて押し寄せてみたりと、金融と言う名の我欲の塊の妖怪が腹を満たし渇きを癒そうと暴れ周り混乱させている。社会の物質中心の価値観が変容しないかぎり、この妖怪は人間の価値観の総体として社会を振り回し続ける。それぞれの国の政府や中央銀行が主管できる範囲を遥かに超えている。機軸通貨がドルであればアメリカの判断が全てを決めると言っても過言ではないが、ここまで借金し続けバブルを膨らました以上何をやっても裏目に出る。もはやドルの信用等お構いなしで莫大な国債を発行し、FRBに輪転機が焼けるほどドル札を刷り続けてもらうしかない。ドルが兌換紙幣の価値を投げてからは、ドルは石油との交換性を信用基盤に置いている。だから石油産油国がドルを辞めてユーロに変えることはアメリカに取って死活問題となる。わざわざ中東まで行って犠牲を払い戦争を続ける理由もここにある。ゴールドが無くても経済は成り立つが石油が無かったら今の経済は成り立たない。石油との交換性を担保に機軸通貨を維持してきたが、アメリカはそれに甘えて石油のみならず、中国人民の激安労働力にももたれ掛かり日本の技術力にももたれ掛かり、米国債の信用力の根底にはそれらが担保になっている。アメリカ国内に信用を担保するものは何も無い。仕事もしなければ産業もない。情報産業があるにはあるが国家経済の基盤にはなれないだろうし、殆どを金融取引で食っている状態だ。国家経済のラスベガス化だ。今アメリカにあるのは莫大な借金のみで、返せる見込みもないしつもりも無い。それをどう踏み倒すかに知恵を絞っている。最終手段は戦争を起こしてチャラにすることだと言うはかりごとは見せないよう、どう転んでもいい様に布石を打っている。その仕掛けが全世界が戦争を含んだ最後の混乱期に突入する言い訳となり導火線となる。善悪をはっきり分ける為に神様はこの混乱をサタンに任せる他無いだろう。大統領が誰になろうが殆ど関係ない。踊らされている背後にある陰の力を見る必要がある。

2008年8月5日火曜日

霊界様相

人間は地上世界に身を置いて自分の宇宙を創造している。霊界に場所を変えれば自分が創造した宇宙に自分が住まう。五感で受け取るものが自分にとっての実感であるこの世界に比べ、内的に自分が築き上げていく世界こそあの世の実感として霊感に受け取る。自分が自分であると認識できる内なる世界が、敢えて言えばぬいぐるみをひっくり返して裏地を表に出すように、実感として住まう世界に変わる。地上に於いて空気や水や土、そして全ての存在物を認めて受け取るように、霊界に於いてもあらゆる霊的要素、全ての霊的存在を認めて受ける。しかしその在り様も受け取り方も地上とは全く異なる。自分の前に現れてくる存在は、地上でどう生きてきたかにより様相を変える。地上で霊的なもの内的なものとしてどれ程価値を置きどう扱ってきたかが、そのまま霊的存在から受ける仕打ちであったり供与であったりする。生前の内面の活動がそのまま生きた存在として眼前に現れる。イエス様の愛に帰依して生きたものは、その魂の様相がイエス様の愛により光り輝く宇宙となり、肉身を脱ぐとその様相の中に居を構える。帰依の度合いを深めれば深めるほどに、愛に溢れる記憶内容、思考内容、感情内容が生きた霊的存在として自分を取り巻く。自分の暗い魂の在り様、醜い魂の在り様を、愛のあふれる明るく美しい在り様にする為にどう自分が能動的に関わったか、能動的とは自分から自分の意志で、と言うことであり、自然に知らないうちに、と言った立場とは違う。従って自分の内面路程の創造は困難が伴い苦労が伴えば伴うほど、より意志を強くしより能動的に関わることになる。神を否定し内的霊的な事柄を否定する唯物論者は、はなから内面的創造に関与しない。即ち自分の住まう霊界の居場所はない。生前物だけを崇めていた地上に於ける現実を、死後自分の周囲に見出せないでいる。押し寄せる霊の中で窒息するか溺れ死んでしまうしかない。

2008年8月3日日曜日

事故に関して

事故の衝撃が地上にいる全食口を貫いた。皆一様に驚きと安堵を同時に覚えたと思う。八十九にもなられる御父様であれば食口はおろか地上にいる全人類に於いても、御父様が御存命の光り輝く地上生活以外は殆ど誰も知らない。何があっても不思議ではない最悪の状況を誰もが垣間見たと思う。闇が覆い全天宙が力なく臥す狭間を、私も見た。摂理の意味と御自身の役割を誰が知るでもなく神様と全天宙、そして地上天上全人類の救いを一つの肉体と一つの魂に引き受け歩んでこられた路程は人間の想像を遥かに超える。人間の小さい魂でそれを図ること自体が愚かだと言える。我々の叡智を超える天宙的認識と判断で舵を取り、地上天上全人類の親としての計り知れない心情を宿され、岩はおろか惑星さえも砕く固い意志を備えられて天との約束を果たされてきた。御自身の身辺に起こること、真の家庭に起こること、それらを人間的判断に任せることは危険だ。復帰摂理の最終段階の天宙的やり取りがその背後にあることを見えずとも認識する必要がある。ただの事故だと決して捉えるべきではない。事故に持ち込もうとする背後の力が明らかにあってのことであり、霊界の御子女様をはじめとするそれに立ち向かう力がそれに勝ったと判断できる。復帰歴史を見る限りサタン圏も条件が揃わない限り打って出ることは出来ない。我々の条件の欠如は明らかで、祝福家庭であるなら先ずそのことに関して悔い改める必要がある。勝利されてサタンの攻め入る条件は御父母様御自身には無いはずが、敢えて打たれる立場に自分を置かれる現実を我々は見逃すべきではない。その事実を受け取って皆はどう捉えるだろうか。受け取る以上そこに本質を見る必要がある。不可避的だったと言われるなかで摂理史的に必要である、或いは国形成の伝統を作るのに必要な原理的材料を揃える為に必要だったと語られる、その意味をどう捉えたらいいのか。深刻だと語られるその真意も程度も自分には計れない。ただただ申し訳ないという想いを強くする以外、自分の為す術は無いのだろうか。

2008年8月2日土曜日

宗教について考える

神の存在はこの被造世界から因果論的に論証することは出来る。しかしその認識は機械的なものであって感情や意志という魂に働きかけるものは見えてこない。復帰歴史の流れに於いて、それぞれの神観がそれぞれの時代に応じて与えられている。人間の魂の在り様の段階に応じてそのように摂理されてきた。救世主が肉体を纏った形でこの地上に降り立った時、人類は辛うじて彼を受け入れることが出来る魂の在り様まで到達できた。救世主を迎える為に、降臨前の数百年、神は多くの精神指導者を送られた。彼らをして最終的な魂の耕しが人類には必要だった。そして迎えた救世主ではあったが結果は誰もが知っている。あのように悲惨極まりない最期を認めながら、十字架が神の計画であったと言える感覚は理解を超える。しかしながら十字架故のクリスチャンであることも否定できない。イエス様の愛の言葉が十字架によって裏付けられている。主の十字架という尊い血の犠牲が彼らの信仰の根底にある。そのイメージに支えられる形で愛のみ言を魂の中に受け付ける。ある意味で条件付の信仰なのだ。だからと言ってその信仰が偽りだというつもりは毛頭ない。ただ神様がその信仰に触れるとき、胸を掻き毟られるほどの悲しみが伴っている。イエスキリストは確かに存在している。クリスチャンの魂の中に生き続けている。イエス様が私の中に居られると断言できる意志の力を魂の中に感じ取るのでなければ、イエス様はその人間の魂の傍を通り過ぎていくだけだ。救い主イエスキリストとして魂が受け入れる為には十字架イメージの衝動を能動的な仕方で自分の中に喚起しなければならない。人間であることの尊厳は主イエスキリストという高次元の真理、即ち愛を認識することにある。しかしそこに至る為に強制されるのでなく、あくまで自由意志として獲得される。堕落したのも自由意志であり本然の愛への道も又自由意志である。クリスチャンでなくとも全ての信仰は自由意志として本人が獲得したものだ。それぞれの宗教によって次元は違うし、またクリスチャンといってもピンからキリまでその信仰はあるだろう。だから宗教の違いがそのまま階層の違いとも一概には言えないが、愛という光を直接的に受ける、反射したものを受ける、或いはフィルターを通して受けるという違いはある。我々の御父母様に対する魂の在り様もそのようであって、自由意志をもって近づこうとするのでなければどれ程向こうから近づこうとされても我々の横を素通りされるしかない。この世界に奇跡はあっても魂の奇跡は有り得ない。それが他の被造物と違う、人間に与えられた自由性というものだ。一生懸命と言う言葉を御父様は好まれる。一生懸命近づこうとするその自由意志をもってしか真の父母の在り様には近づけない。慕うと言う情的衝動によって行動することを侍ると言う。侍って侍って侍りぬいて、真の父母に於いて生きるのであり真の父母に於いて死ぬ。

送金

決して少なくはない額を支出した。こういう時に先ずやるべきことは祈ることだろう。一つの店を与って、自分の事として自分の店として営業しないかぎり利益などでない。責任者がどれだけ自分の店だという主人精神に立っているかに懸かっている。その想いを持つなら、この額を出してください献金してくださいと言われて、何の感情も無く出せるということは有り得ない。銀行に行って部屋に通され、トランスファーの手続きを行う。マネージャーなのだろうか、この大柄な黒人女性は私がアカウントのサイナーである事を確認すると、鼻歌交じりにキーボードを打ち始めた。プリントアウトされた用紙を手元の送り先のバンクとアカウント番号と一致しているのを再三確認し、サインした。ものの十分も懸からないこれだけの作業だが、疲れた。身体の力がいっぺんに抜けた。今、相手方の口座に移った数字にどれだけの客の想い、従業員の想い、天の想いが込められているだろう。店のことを本当に思うなら痛みが伴う。この金を出すことで店は痛手を蒙る。この金を出すことが本当に願いだろうか、という問いが暫く続く。この店が御父様の手足の一つであるという想いがあるので献金を出すということは御父様が自分の手足を喰っているという感覚が私にはある。個人的な想いではなく、主人精神に立てばこその様々な想いが出てくる。だから先ずやるべきことは祈ることだろう。この支出が御心のままに使われるよう、支出することに対する悶々とした想いを払拭し感謝の念を込められるよう、これが条件となって天の願いに応える展開が出来るよう、祈ることだろう。そしてどうやって新たな活力を生み出し、自分もヤル気が出て従業員にも希望を与えられるか。