2008年9月30日火曜日

今日の想い 14

青春を返せ裁判が起こるほどに、ある兄弟は自由を奪われてきたと言う認識の中で歩んできた。しかし献身生活と言う名の不自由を選んだのは自由意志で選んだのであり、自分が信じる自由が欲しいのなら献身生活を辞すれば済むことだ。人間は自由意志の存在であるけれども本当の自由意志を魂の中に見出す者は少ない。殆どは自分の欲求を自分の意志と勘違いしている。欲求の出所を見出せないままに欲求に踊らされている。真の自由は魂の中に築くものだ。神に直結する自我から来るものと、悪霊雑霊の類から来るものが魂の中で混在している。どの思いが本当の自分から来るものか分別できず曖昧にしているから、自分で自分の人生に責任が持てず他人にその積を擦り付ける。確かに外的側面を言うなら、身体を休める暇もなく活動していた時期もある。自分を活動に押し出すことに病むほどに精神を使い込み、魂がへとへとになった時期もある。上から否応なくプッシュされ、それに合わせようと必死で喰らいつく在り様に、別の意志を起こそうとする精神の余裕はない。だからこそ守られた部分もあることは否定できない。生活に於いても内面の在り様に於いても、余裕が出てくれば堕落的要素の別の意志が頭をもたげる。み言をもって如何に戦いを挑み分別していくか。守られて悪への道を塞がれ善の位置に立つ立場と、悪に立ち向かい戦いの末、勝ち取った善の位置に立つ者とは違う。そこで初めて魂に善なる要素は浸透し、み言に備わる霊で自我が作り変えられていく。言われるままにやってきた、ある意味集合的魂の手足でしかなかった状態から、御父母様に戴いた霊を宿す分家魂として、自己の判断による独立した内的在り様を確立する者になることを願われている。そういう時代圏で旧態以前の意識や在り様は取り残されるしかない。

2008年9月28日日曜日

今日の想い 13

天使長ルーシェルの誘惑がなかったら、人類始祖の堕落がなかったら、今のような人間の在り方は無かったろう。今ある人間としての姿や在り様は堕落したからこのような在り様をしているのであり、堕落の結果としての人間であって本来神様が創造理想としての在り様とは違うはずだ。宗教に関する事柄はあくまで内的な内容であって、外的なこの世界、或いは人間の外的在り様は神の創造理想と寸分違うことは無いと認識する者の方が多数とは思うが、それは堕落人間の思い込みに過ぎない。手足が複数あるとか火星人として描かれた蛸が立ち上がった様子であるとかを想像して、馬鹿馬鹿しいと思うのかもしれないが、そういう発想自体が堕落人間的発想だ。今の我々の感性で想像できる在り様とは全く違う在り様をしている。しかし言えることはルーシェルの血が人類始祖に混入された以上、今の人間の在り様にルーシェル的な在り様が明らかに組み込まれているはずだ。目だろうが耳だろうが本来の創造理想の在り方とは違うルーシェル的在り方をしていると思う。神の様に賢くなると言うルーシェルの誘い文句も、明らかに今まで隠されていた視界が開け、届かなかった音階が耳に入ってきたのだろう。我々が五感を通して受け取るプロセスで、器官自体も受け取る感覚もルーシェル的なものに違いない。堕落によって勝ち取った似非感覚に違いない。だから視覚を通して受け取ったものも他の感覚も、そのまま鵜呑みにすべきではない。賢くなりたいとの思いからアダムとエバは認識を得ることを早まった。早まったが故にその認識は欠落的なルーシェル的認識感覚となった。我々の目はルーシェルの目であって神様の目ではない。我々の感覚はルーシェルの感覚で神様の感覚ではない。だから自己否定、全てを否定するところから多くの宗教は出発したし、我々の信仰生活も自己否定からの出発だった。姦淫の思いで女を見るならその目を抜き取り、罪を犯す右手があるならそれを切り落とす。その言葉には悪魔の現れを呈した肉塊に対する恨みを宿している。悪魔の血、悪魔の肉体の中に魂は組み入れられてしまった。魂と肉体の分離が可能であるなら、そしてルーシェルら一族への完全抹殺が可能であるなら、人類という肉体の瓦礫はとっくに焼き滅ぼされていただろう。しかし人間は矛盾性を孕んだ存在であって愛の道理に反する事も平気で行うが、神自身が矛盾性を孕む存在とはなり得ない。妻が犯され娘が犯されるのを見ているしかなかった。それ故に堕落の事件以降、最も悲しみ最も苦しみボロボロになりながら人類全ての重荷を背負ってきたのは神御自身である。不自由な子供を見る親の思いが根底にある。今の今まで許して許して許し続けてきた。しかし親であればこその怒りも持ち合わせ鉄槌を下す時も又近づいている。怒りの封印は必ず解かれる。

2008年9月27日土曜日

今日の想い 12

この感情をどう解き放ったらいいのだろう。この感情に呻吟することがどういう意味があると言うのだろう。自分の魂の幼さ故に生み出されるものなのか、それとも甘受すべきものとして受け入れるべき何らかの意味があるのか、うろたえるばかりで光が見える出口は見出せない。西暦2008年9月26日と言う一日、地球上のこの広大な土地の一点に身を置き、この一つの感情に押しつぶされる魂が存在するという現実。自分は試練の只中にあるのだろうか、ただ単に謂れの無い霊に弄ばれているのだろうか。自分の中で終わる事のない問い詰めが答えを見出せず、真っ暗な中を彷徨い続ける。言い知れぬ不安感情が大波となって幾度も幾度も襲い続け、それに翻弄された思考は砕け散った小船の如く、断片的で無意味な夢のように無力で、波を治めるはずの意志のかけらさえ何処にも見出せない。感情の海に溺れ為す術はない。これほどまでに傷つきやすい魂なのかと思い知らされ、繊細さより強さが要求されるこの世界で、どのように生き延びていけばいいのか。魂を鈍化させ毛が生えるほどに逞しくなることが生きる術ではあるとしても、魂を貶めてまで生き永らえることに執着する意味はないだろう。それならば魂をすり減らしながらも、より高みを目指すことの方が神を慰めみ旨を歩む者の姿勢だろう。大気圏を突破する為には自己の魂の擦り切れ磨り減る犠牲が伴う。それさえも良しと認識して更なる高みを目指して行く事で、垂直最短距離で光漏れる出口を視野に捕まえる事ができる。そう信じ込む。それが犠牲という意味だろうし信仰という意味だと思う。そう結論付けて線を引くとしても、押し寄せる波が消え失せる訳ではない。怯えながら打ち震えながら、それでも紙一重の進展であるとしても 高みに視線を届け続ける。どれ程微かな意志であっても本質の自分、神の息子としての自分は、感情に踏みにじられるその意志の中にある。

2008年9月23日火曜日

アベルカイン

自分が所属する会社なり組織に於いて、自分の上司がアベルであり自分はカインの立場だと当然のように認識してきたが、その思い込みにサタンは巧妙に働きかけてきた。歴史に於けるある期間、主君に忠節をもって仕えその命に殉ずる生きる形、愛の形も確かにあった。しかしその当時の自分という個の在り様と今の個の在り様とは明らかに違う。過去に於ける在り様がより善で今の在り様は甚だ堕落した状態だと決め付けるのは間違っている。立派な主君や主君に仕える者たちの生き様を、書に記したものや映像に表したものは多いが、それをそのまま受け取り作為的に美化されたものを本質だとして認識するのは危険だ。それは事実とは程遠く、表したものの主観によるものであって、正体は極めて独善的な在り方をしている。善神の要素が無いわけでもないがあくまでサタン主管圏でのことであり、悪神が大きく関与している。個の確立が大きく進歩を遂げた今日に於いて、それぞれの個に与えられている良心が作用する力は大きい。良心の声こそ神が働くアベルの位置そのものだ。下賜された位置を独善的に解釈し、その権力をひけらかし乱用するのはアベルの権威から来るものではない。悲しいかな今まで多くの状況で見られてきたし、それによって良心そのものが翻弄されてきた。位置ある者に対するとき、敬意を持って接する事は当たり前としても、関係を深める中で内的に屈服しうるものが見えれば、それこそ良心がアベルと認めるもので、人物総称がアベルではない。責任者を、この方が私のアベルですと何の疑いも無く口に出してきたが、それが霊的混乱を招いたことは事実だ。責任者がカラスは白だと言っても、カラスは明らかに黒だ。人間であれば間違いは幾らでもある。それを指摘してくれることを部下に望み、部下も何の躊躇も無く進言できる関係、されど位置に対しては内的に屈服している関係こそ今日の組織に於ける健全な在り方だろう。

自己愛家族愛

誰もが自分が一番かわいいだろうし護りたい。この身体に閉じ込められた自分という存在に他のものが侵入するのを許さない。頑強な塀を張り巡らし自分自身を護りながら、様々な想いへの執着を益々強くする。一つの想いに執着すればするほど、周りのものは見え難くなる。駄々をこねて自分が手にした玩具を放さない子に、どんな交換条件を持ってしても駄目なように、誰が説得しようとも自分の想いを捨て去る事はできない。執着するとは、自分のものにした、自分が信じる愛に対する執着を言う。自己中心と言うけれど、自分に対する愛と言う、それはそれで愛には違いない。しかしそれに執着すればより大きな愛へ向かう触手は芽を出さない。愛の器は小さいままだ。持ち合わせの愛を羽交い絞めしている。愛の大きさを見ようとすれば、羽交い絞めしているその手をほどき解き放つ必要がある。物心付くまではひたすら受け続ける姿勢を崩す事は無いが、ある年齢に達すると与える事に目覚めてくる。与えるには、与えて足る容量が必要になる。より多くを与えればより多くを受ける事を学ぶ。逃すまいとられまいとして愛の器のふたを閉めたままだと、出す事もないが新たに入る事も無い。愛は流れてこその愛だ。空気も水もそして光も滞るべきものではない。愛も滞るべきものではない。自分の愛の器は広大深遠なる宇宙の愛の流れの経由地として組み入れることで、掛け流しで必要以上の愛が流れ入り、ふんだんに与える事ができる。執着すればするほど宇宙の流れから遠ざかっていく。妻や子供への愛と信じて言動や行動に出るのだけれど、そこに家族愛に対する執着はないか。愛と信じて妻子の為と信じて関わってきた事に、執着心から必要以上の押し付け愛が夫婦間家族間に滞り、気付いた時には愛と呼べないものに形を変えていないか。家庭が単位ではあるけれど、愛がその場に滞っているのであれば形を変えた自己中心主義とならざるを得ない。

2008年9月20日土曜日

入院

急に嘔吐をもよおし、不快感で一睡も出来なかったらしい。吐いては又はいて吐き続ける。すでに胃の中には何もない。それでも吐き続ける。胃腸の痛みも増してきたらしい。半日ほど様子を見て、ERに連れて行くことにした。本人はぐったりして立つ気力も無く、嫌がったがどうしようもない。何処に連れて行くか迷ったが、近くの病院に連れて行くことにした。急患に連れて行くのだがそれでもしっかり待たされる。どんなに早くとも小一時間は待たされる。何処に行ってもアメリカは待つことを強要される。へとへとになりながら待つこと一時間半。やっとの思いで寝台に横になり点滴と吐気止め。しかしそれでも嘔吐は治まらない。発熱し始め更に血圧は天井知らずだ。横にいてオロオロするしかない。大変そうな妻に代わって遣りたいが、どうしようも無い。この状況を今まで何度繰り返してきたか。彼女の腹に居座る何物かが居るらしい。そう理解しないかぎりこれ程に数を重ねて腹部を病み悩まされることが、偶然のように起こりうると誰が信じることが出来るか。身体をくねらせのた打ち回り、そして胃の中のものを搾り出す。既に力は使い切り身体を維持する力を辛うじて戻す力として使う。戻した後は溶けるのかと思うほどぐったりし頭をもたげる気力すらない。この繰り返しをいつ終わると無く小さな痩せた身体に強いられる。その正体を暴きたくとも見ることも出来なければ話しかけてくるでもない。しかしながら彼女に居座る以上、彼女に居座られる条件があるということだ。悪霊よ去れと聖別しようが、憎しみ怒りを掻き立て益々執着するだろう。居座る霊の位置に下り、その思念を解いて上げる必要がある。本人が取り付かれている以上、周りの誰かが供養をしない限り、本人も無間地獄、霊自身も無間地獄だ。癒されぬ想いを聞いてあげ、その思念を解いてあげ、そして大母様にとりなしてあげる。その場に執着していて気が休まるはずは無い。零障を起こさせる為に取り付くのでなく、彷徨った挙句この場にすがるような思いで取り付くしか無かったのだろう。跳ね除ける思いを飛ばせば、掴むものを取り払われ溺れるしかない。この想いが届くように届くようにと浄霊の念を捧げ、腹をさすってやった。薬で朦朧とし殆ど動く事のない身体が、時々痙攣したように震える。

2008年9月18日木曜日

近未来

いよいよ白いあぶくが消えうせて、アメリカ経済の流れが目に見える形で表面に現れてきた。経済としてのまともな流れが金融という汚水で何十倍にも薄められ、薄められた経済血液が、本来の働きをするどころか汚物で血管を詰まらせる。そして事態を極限まで悪化させている。あぶくの下を見ることは無かったが、消え失せると汚物で腐敗したあらゆる臓器が瀕死の状態だ。どれだけ公的資金を投入しようが天からの輸血という頂き物と違って、己が体内の汚水をマッチポンプで移動させ、取り敢えずこれで腹を満たせと言っているに過ぎない。政府で何とかしてくれるだろうと微かな期待を繋いでも、はなから政府は国民になど顔を向けてはいない。国民が選ぶ国民の代表とは表向きであって、実のところ陰で操ってきたほんの僅かの群れに牛耳られている。いざとなると国民など煮え湯釜の敷板扱いにされることになる。首から下はいつでも切り離せるようその準備に余念が無い。具体的にどう出てくるか、おそらくドルの切り下げ辺りから始めるだろう。取り敢えず半分くらいに切り下げて対外債務を帳消しにかかる。その次は新しい通貨の発行だろうか。銀行も半分以上淘汰させスリムになったところで新通貨の発行だ。裏金、タンス預金など、政府が残した僅かの銀行に口座として残されたもの意外一瞬にして紙切れと化す。ここまで介入すると国民だって黙ってはいないだろう。そこで国であろうが州であろうがミリタリーフォースが必要になってくる。軍は対外対策だけでなく対内対策としての権力を持つ。と、ここまでのシナリオを追っていくのは無理があるが、最後の伝家の宝刀として鞘に収めている事は、その筋が認識している。まだまだ国民も、自分に火の粉が飛んでこようとも火中の存在だと言う認識はない。蛙のぬるま湯状態だ。その内脂汗が吹き出るほどに熱くなり、身の危険を知らされる頃は手遅れで、逃げ道はどこにも無い。その時、金も物も、この世の価値など所詮堕落人間の幻想に過ぎないと多くの者は気付くだろうか。それとも物欲に執着して角を生やした野獣に化すだろうか。パワーに価値を置くものとフォースに価値を置くものが分けられる。

2008年9月16日火曜日

ホームレス

メインストリートを走れば、交差点の中ほどに、ホームレス風を装い段ボール紙の端切れを両手で抱えて立っている人をあちこちで見かける。GODBLESSYOU祝福がありますように、古茶けて無造作に切り取られた紙きれに、フェルトペンで書かれた言葉を目にして、心を動かす人はそうはいないだろう。赤信号で仕方なく停車せざるを得ない人々は、前方から近寄り面と向かって対さなければならないバツの悪さに、ひたすら視線を避けようと不自然に固まっている。滅多に小銭を渡すこともないが、それでも何度か手渡したことがある。物乞いとは違うが自分も募金活動には参加したことがある。風雨に晒されながら通り過ぎる人の波に声をかけ続けることの大変さはよく分かっている。普通は、当人に気付きながらも敢えて人の流れに逆らうことはない。目が合ってもそのまま通り過ぎる。たまに人ごみから這い出て来て、声をかけてくれたり募金箱に入れてくれる人がいて、お釈迦様にでも出会ったような嬉しい気持ちになったりもした。車を走らせ、赤信号で止まる毎に、力無くたたずむ景色に出会うとそんな昔を思い出す。その都度観察していると、いろんなタイプがいておもしろい。装いは小汚くまとめそれ風ではあるが履いている靴が妙に綺麗だったり、何処で設えたのか立派なボードにカラー刷りの物乞いトークを綺麗な書体でまとめていたり、笑顔を満面に湛えながら運転手一人一人に挨拶をするツワモノもいたりで人間様々、ホームレスも様々だ。先日いつもの通りを運転しながら、いつもの上背のあるホームレスが数ブロック先に立っているのを確認した。素通りするだろうと思っていたが、急に表示が変わったので彼の手前に停車することになった。見えるだろうかどうだろうかと言うほど小さなボール紙を掲げている。何が書かれているかは分からない。赤茶けた彼の動きの無い横顔を見ながら自分の気持ちが動くのを察した。反対車線がまだ青のままだと確認して五ドル札を財布から取り出した。いくらでもよかったが財布を開いて目に付いたのが五ドル札だった。ウィンドウを下げ渡す仕草をすると足早に寄ってきて、受け取ろうとする。と同時に片足を膝まづけた。それまで気付かなかったが何か分厚いものを抱えている。聖書だった。表紙が薄紫色に変色し消えかかったHOLYBIBLEの文字が浮かんでいた。それを私の顔の位置まで掲げると、聖水でもかけるように右手の指を私になびかせた。そして私の目を注視しながら低い声で告げた。GODBLESSYOU. すでに青サインが出ていて急いで発進すると同時だったので、最後の方は消えて耳に届かなかった。サイドミラーにまだ膝まづいているのを確認しながら何かを自分は受け取ったと思った。あの微妙な指の動きから何かが出ていた。それは決して不快なものではなく、寧ろ何か尊い感覚だったような気がする。実は彼は数年前新聞に載ったことがある。ホームレスがどうホームレスになったかと言う記事に小さいけれど写真付で彼のことが書かれていた。いつも見かけていたので目に留まった。いつも彼はボロボロではあるけれど軍服を着ている。記事を読むと以前は空軍の隊員であったと書かれていた。軍隊にいたのであれば恩給なり何かの保障はありそうなものだがと思ったが、英語の記事など通して読むほど理解力も忍耐力もなくその真意はわからない。何とも言えないが今の彼の現実はホームレス生活だ。今まで気にも留めなかったが、彼に手渡したときのあの目が忘れられない。あの目は世捨て人の目ではなく、何かの信念を持った目だった。

2008年9月15日月曜日

今日の想い 11

兄弟であればその認識程度の差異はあるとしても、創造主である生きた神様を信じている。しかしながら信じてはいるもののはっきりと捉えているか、即ち生きて自分に働く神様として生活の中に実感として捉えているかとなると非常に曖昧な認識でしかない。祈りに於いて天の御父様と声をかける時、未だ自分にとって曖昧な親なる神様を探し、尋ね、近寄ろうとする内的なる姿勢を能動的に起こしながら次なる言葉、次なる閃きに耳を傾けようとする。このような祈り、このような祈りに準じた生活を積み重ねる事で神様に近づく事は出来る。しかし祈るにしても祈る姿勢が正しく行われていない限り、祈っている風ではあっても祈りとは言えない。この能動的と言う言葉がみそで、本当に魂の要求を持ってその上での祈りであるかと問わなければならない。人間は自分が落ち着く環境を整えようとし、その環境に住まう。それは外的環境以上に内的な環境をそのように整える。そこが落ち着く処であって、そこから基準の高い位置に向かおうが低い下に向かおうが、とにかく自分の基準に合った内的霊的位置にしがみ付き離れようとはしない。自分の魂に神様に向かう力を植えつけられてはいるものの、それよりも遥かに今の基準や位置にしがみ付く力のほうが強い。その力を押さえつけ神様へ向かう力のベクトルを強くする為には今の自分を否定し闘うことが要求される。だから本当の祈りは闘いである。自分という宇宙の中で、善なる霊と悪なる霊が熾烈な戦いを繰り広げる。それを見ずして祈ったとは言えない。そういった事こそが真の現実でありこの世界の物質的感覚的遣り取りは影のようなものだ。祝福家庭が有難いのは真の父母を戴いていると言う事だ。生きた神様をこの地上に戴いている。御父母様に侍る事で祈りに勝る内的霊的成長を受け取る。祈りにのみ殉ずれば途方も無い内的路程を旅する必要にありながら、御父母様に侍る事で高速路線を走る事ができる。開闢時代は更にワープ出来るほどに高次の霊界が降りている。

2008年9月14日日曜日

危機感

いつも危機感を持って次の一手を打つ。経営していく上で不安材料はあちこちに見られる。今の状況を見ると、材料コストは下がる気配はないしさすがのアメリカも消費意欲に欠けている。悪くはなっても良くなる事は無い。これを見越して低価格業態を進めていれば抜け出していたかもしれない。薄々わかっていたがいつどのタイミングで、という事になると今まで出来なかったのはそれなりの理由がある。危機感と言うけれど、後になってあの時こうしておけばと思うのが常で、もし手掛けていたとしてもそれに対するコストなり上手くいっている現状に対するシワ寄せなりはある。不安材料に振り回されていて腰の据わった経営など出来ない。環境や状況は常に変わるけれどそれに振り回されるようでは真の事業とは言えないだろう。訳あって従業員数名を解雇することになった。別に何か責めるべき事が彼らにあった訳ではない。責任者としての危機感がそうさせた。文句も言わず私の言葉に従い、他のどの従業員よりも貢献してくれた。しかしながら切らざるを得ない。心を鬼にして解雇説明をした。頷きながら、今まで働く事が出来た感謝を彼らは口にした。心ならずもこうせざるを得なかった事を責任者として謝罪し感謝を述べたが、言葉はそれで途切れてしまった。責任者としての不甲斐なさに心が折れた。申し訳ない思いがあるにせよ、自分が今やっていることは愛のある行動ではない。せめて通告することで負った傷の生々しさを、魂に焼き付けて置くことが彼らへの礼儀だろう。この国でビジネスをやる以上、この国の規則に従わざるを得ない。危機感と言うとビジネス的だが、ようするに恐怖感なのだろう。この会社、この店を守るためと言うけれどその中で安住する自分を守る意識が根底にある。この身が危ういという恐怖感を見事に隠しながら会社に顔を向けている風を装う。責任者は会社に対して従業員に対してそして客に対して、為に生きるという愛が根底にあるのかそれとも自己保身なのか、自分が問わない限り誰も問わない。いつもその問いを自分自身に投げかける処から、本物の経営者は出発する。

2008年9月10日水曜日

知性文化

人類歴史を外的にのみ観察するなら、近代に於ける急速的科学発達に見るように、知性の深みに向かって発展してきた。人間は精神力を内的霊的な探求に使ってきた何倍をも、外的知性の探求に費やしてきた。天使長ルーシェルがエバを誘惑したとき、エバは天使長の知性に惹かれている。取って食べれば死ぬとの忠告を与えられながら、死を超えて天使長の横的愛に魂を任せたエバは、親なる神の本然の愛を捨てて、創造物に過ぎない天使長の、知性に溢れる偽りの愛を選んだ。あくまでそれは偽りであって愛に似て愛にあらざるものだ。下心を持って愛に偽装されたものに惹かれた。偽装する為に用いられたものこそ天使長の知性だ。創造物の中で右に出るものの無い天使長随一の知性で、愛以上の愛らしさを演じ作り上げた。結果として人類は、愛を取らずに愛を装う知性を選んだ。愛こそが第一義でその為の知性であるべきものを、知性を第一義としてしまい愛はそれに色をつける程の付けたしにおとしめてしまった。この堕落世界は知性文化で花開いている。個人にしろ社会にしろ愛することに精神を使おうとはしない。より知性を磨くことに殆どの活力を費やす。学校で愛する訓練はしないし社会でも知識と論理に長けるものが跋扈する。ノアの時代以降、人類は霊的感性を封印されているから知性は外的物質的な方向を取らざるを得ない。やがて人間はより知性を求める物質の奴隷と化す。天使長に似るべく賢さは一級の蛇であり、自己保全と弁護に如何様にも頭を捻くり、いくらでも言葉を並べる。心の不在と愛の無さを屁理屈で覆い隠す。人格没落であり人間失格でありながら本人の頭にはその言葉は意味不明だ。サタン文化が最高に花開いた今、人類は岐路に立たされひとりひとりの選択が求められている。本然の愛に方向を取るのか、それとも更なる知性を追い求めるのか。至極シンプルに言うなら、愛なのか金なのか、み旨なのかビジネスなのか、心なのか頭なのか、そして羊なのか山羊なのか。

2008年9月8日月曜日

敢えて非難を浴びようと思う。罪を犯す前は罪を犯すなという言葉に拘束力は無い。近寄らなければ済むものを、しかし近寄らなければ罪の意味さえわからないと近寄る。しかし本人が罪を犯してしまったという自覚の後は、後悔の念が責め続ける。呵責に苛まされ、のた打ち回る。逃げ惑おうとも隠れる場所は何処にも無い。罪を知らない者に、罪に近寄り香りを嗅げと囁く存在がいる。その存在の囁きを自分自身の思いから来るものと勘違いし、抗うことは不可能とその囁きに心を許す。繰り広げる人間模様の背後で、肉心に働きかけ魂に働きかける意識下の存在がいる。その存在の駆け引きが罪の行為の前には悪魔が先行し後追いで神が働く。エバが天使長に心を許すその現場で、神様は手を出す事もできなければ声をかける事もできない。人類始祖から人間は自由意志を与えられ、自由意志圏内は神も不可侵の領域だ。堕落する事を人類は自由意志で選んだ。神から遠ざかることを自由意志で選んだ。自分の中に神に属するものと悪魔に属するものとを内包する、矛盾存在であることを選んだ。一度はそう望んだものの人類の良心は自分が本来神の子であることをどのようにも否定できない。神様は人類の良心故に救援摂理を進めてこられた。人間と名の付く者は全て矛盾存在だ。アダムとエバを始祖とする矛盾存在だ。この肉体で罪を犯そうが犯すまいが、罪は内包している。間違いを犯さずして罪意識の無いものより、罪を犯して罪意識がある方が、より救いを求める。矛盾性という神と悪魔の戦いの現場が人間ひとりひとりでもある。一方を神が取れば一方を悪魔が取る。悪魔が罪を犯させる肉体をとれば後悔の念に苛む心を神がとる。神が間違いを犯さない肉体を取れば罪意識のない傲慢な心を悪魔が取る。外的表面的判断のみでひとりひとりの救援摂理を見ることはできない。意識下に於ける熾烈な霊肉の駆け引きが為されている。無知と自覚の無さで罪にまみれた人生はそういった霊肉の駆け引きに翻弄されている。その認識を得るなら、個人的勝手な判断で目の前の千鳥足の人物を裁く事は、どんな罪よりも重い。その人物を悪魔にくれてやったが為、自分がみ旨に歩めるのだと認識すべきだ。祝福を得たことで満足し、自分や家庭が再堕落しないことのみが関心事で、他の誰がどんな罪を犯そうが他の兄弟姉妹が信仰を捨てようが何の感情も無いとするなら、信仰が弱い自分を自覚してひっそりと生活する兄弟の何倍も責められて当然だ。与えられた祝福を祝福として頂く態度は、人類皆が祝福を受けてこそ初めて自分の祝福も祝福足り得るとの認識から出発すべきだ。祝福を頂き喜ぶ背後で、条件の無い自分が祝福を受けたが故に、悪魔に翻弄される多くの可愛そうなものたちが犠牲になっているかも知れない。明らかなのは御父母様が犠牲を払われた代価であるということ。複雑極まりない多次元復帰摂理の、ほんの一部分しか見る事はできない。自分の拙い判断で測れるほど本質は単純ではない。

今日の想い 10

堕落の今生に翻弄されながら、それを当然のように良しとする自分がいる。ある時は、ぬるま湯に放たれた蛙のように、偽りの波間に漂い、やがてじわじわと煮え湯になっていくのさえどうでもよく、居心地の良さに身を委ねる。這い出せば抜け出るものを、怠惰というぬるま湯に浸かり微動だにしない。いっさいは他人事、やがてひりひりと赤く腫れ上がる自分の事ですら他人事。ある時は血気に燃え、もたげた鎌首を見事に切られ、身をくねらす蛇のように、赤黒い血を搾り出し、染まった身を躍らせる。もはや傷つき傷つけられる痛みの感覚は消えうせ、いともたやすくむき出しの感情を撒き散らす。言葉を操る犬畜生に成り下がり、口から鋭い棘を吐く。偽りの自分が顔を出す時、立ち上がって天を望み、拝することを忘れている。地を這い回る事で満足する。塵芥を喰らい腹を膨らませる。糞尿を撒き散らすように、そこら中に蔑みの言葉を吐き捨てる。あらゆる醜いものを自分の中に見ながらも、僅かに見え隠れする本然の性品に出会う時がある。それは多くの場合、苦境の只中で顔を出す。打ちひしがれ、もはや立ち上がる力も尽きた状況で現れる。全てを甘受する覚悟が出来た時、謙虚な自分がそこにあり、感謝する自分がそこにある。これが自分の本当の姿だと発見する自分がおり、そういう自分が愛おしく思える自分がいる。その感覚を絶対に忘れない事だ。そしてその感覚を育てていく事だ。それは聖人達が開拓し、後に歩む者に分霊として戴いた一つの神霊だ。この感謝の想いが何処から来たのだろうと尋ねる時、霊なる感性を鋭くすれば観音様であったり菩薩様であったりする。観音意識、菩薩意識として自分の中で芽を出す。またこの許しの想いが何処から来たのだろうと尋ねる時、惜しみなく与える愛に対して死を突きつけた人類、それさえも許したイエス様であったりする。自分が開拓した高次の感覚であるようであっても実のところそういった聖人達の分霊として戴いている。真の御父母様の開拓された領域は更に遥かな高次元に渡る。言葉とすれば真の愛に集約されるみ言葉の一つ一つではあるが、それは我々がそう思っている真の愛とは想像もつかない高い意識帯に位置する。御父母様に侍って侍って侍りぬいて、そのみ言葉の理解できる領域に行き着く事ができる。それは言いようによっては、より侍る戦いであり、であれば天国は激しく襲われている。

責任者としての負債

必要だと言われれば、本部の事情を最優先して拠出せざるを得ない。上にしてみればたいした額ではないし、出すのが当たり前なのかもしれない。しかし現場にしてみれば僅か一ドル一ドルの利益であっても汗と涙の結晶には違いない。一ドル一ドルに想いや念や感情が込められている。私の想いは取るに足らないものであっても、従業員の想いや客ひとりひとりの想いが込められている。そしてそれだけに留まらない。この店はエバ国からの尊い送金が、立ち上げ資金になっている。そこにどれだけの兄弟姉妹や関わった人々の想いが込められているか。その認識に至らず営業に携わっても本質の意識に欠ける。やもすれば恨みさえ買いかねない立場にある。本当のところ、小さい店としては、決して少なくはない額を拠出して、複雑な想いが拭えない。本当にこれで良かったのか。従業員の想い、客の想い、苦労して復帰した日本の兄弟姉妹の想い、レストランに対する御父様の想い、そういった重圧を背負い認識すれば何か方法があったのではないか。少なくとも個人的想いを超えたそういった想いを訴えるべきではなかったか。本部の要請と同じくらいの軽さが右から左に流した自分の行動にもある。そういった意味で自分も同類で、本部をどうこう言える立場にないし、明らかに内的霊的負債を抱えている。ここのところ夜なかなか寝付けない。負債を覚える自分に追求の言葉が次々と攻め立てる。納得いかない自分の想いであるようで、実は店に関係している様々な霊的存在の恨みにも近い想いが責任者である私を責めている。そういった想いをなだめ詫びを入れながら、神経を掻き立てる霊に納得してもらい、やっと眠りに付く。売り上げだ利益だビジネスだ、出せるものは搾り取ってでも出せと、口角泡を飛ばして激を入れる責任者の事情は理解できるとしても、そういった現場の想いも少しは理解してもらえるだろうか。

2008年9月6日土曜日

ビジネス復帰

我々は経済活動を活動の主体と捉え、今日まで歩んできた。成約聖徒としての事業活動の在り方と、この世に於ける一般的事業活動との違いは何だろうか。この世のビジネスに追いつけ追い越せとの想いで今日まで駆け抜けてきたが、それが天の願いに応える我々の歩みと言えるのだろうか。摂理歴史を見れば、いつもサタンが先行する形、神側はそれを追う形で歴史は流れてきた。神様がつくろうとなさるものと同じ型をサタンは神様に先立つ形でつくってきた。結果的に人類歴史は原理型の非原理世界を形成してきた。であれば今の経済のあり方も原理型の非原理経済体制と言える。本然の経済体制のあり方とはどういうものかと問うときに、経済体制自体は外見上は本然のそれと何ら変わりは無いのだろう。しかし外的体制は変わらないとしてもそれを動かす主管者が変われば全く違うものとなる。悪魔が住まう館が神に取って変わるとき、その館は神の館となる。その時、前の館の在り様と後の館の在り様は全く違うものとなる。その違いを認識できない者は徹底した唯物論者だ。結果としてのビジネスの在り方だけを観察するのでなく、主管者が変わる、或いは主管者の意識が変わることを通して、ビジネスの在り方がどういう変容を為していくかを見る必要がある。それは五感を超えた感性で捉えることであり、霊肉感性併せてビジネスを捉えるものこそが本質の経済を把握することができる。復帰するという言葉がある。万物復帰であるとか経済復帰であるとか、無知な我々は小銭を作る隠語のような使い方をしてきた節があるが、復帰という言葉は実に重い言葉だ。サタンの手の中にある所有(権)を神の側に移す(奪われたものを奪い取る)。それが復帰という意味だ。伝道であれ経済活動であれ、人を復帰する或いは万物を復帰する等のように、外的には所有権を復帰する歩みを為してきた。外的にはそうであるけれど外的に復帰された内容は結果であって、その背後に復帰の為の熾烈な内的霊的闘争が必ず繰り広げられてきた。複雑極まりない内的復帰心情復帰が為されてきた。御父様が不動産であれビジネスであれ形のある物であれ、一度神側に所有権を得たものは死んでも放さないという執念は、ただ外的判断からそのような覚悟が為されるのでなく、背後の熾烈な復帰闘争の結果としての所有権を内的霊的に見ればこそ、そのような態度を取らざるを得ない。そういった判断材料を見ながら我々はどうビジネスに携わっていくべきか、主管者としてどういう内的霊的見地に立てば天の願いに応えるビジネスの在り方となるのか、よくよく祈り考える必要がある。売り上げを上げることが復帰と言えるのか、利益を上げれば復帰なのか、献金すればそうなのか天の願いに即した経営哲学が我々の中に培われ、叡智として蓄積されるのでなければ、汗し涙して歩んできた内的意味は消え失せる。

2008年9月5日金曜日

今日の想い 9

人は一日を送る中で色々な気付きを得る。その気付きは霊的感覚として受けたものであり、色々な気付きを汗でもかくように脳が生理的に排出した思考の断片と捉えると大きな損失となる。霊視霊聴と言えるものはそういった気付きをイメージとして受けるか音の波として受けるかに因る。人はこの地上で肉体を纏い、有形実体世界の中でのみ生きているわけではない。同時に無形実体世界の中でも生きている。どういう人生観を持って生きているかが即ちどういう霊界で生きているかということになる。自分の霊的世界を創るのは思考内容に拠るのであり、思考内容は人生観に拠る。一日を終えて床に就くとき、今日どのような経験をしどのような気付きを得たか、自分の内面と真摯に向き合い確認すること。気付きを気付きとして認識すること無しに、それを踏まえた次なる気付きは得ることができない。日常の些細な気にも留めないことが大きな気付きに繋がる。経験して気付いて学ぶことで自分の霊界様相は変わってくる。日本人として気付かなければならない一つの領域がある。それは情の世界の欠落だ。日本人一般に言えることであるけれど喜怒哀楽を表情や表に現すことを良しとしない。仮面を被って人に対し、感情を抑えて事に当たる。喜怒哀楽を抑えることで他人に自分の内面を曝すことはない。誰もが目に見えぬ甲冑を纏い心を割って交わらない。自分と他人との境界面を強固なバリアで別ち、あれほどの狭小な国土に肩を触れ合って暮らしながら意識に於いて相手との距離を視界から外すほどに取る。そこに情の触れ合いは無い。この情の欠落はそのまま霊界に於いてあまりに孤独な生活を送ることになる。どんな小汚い猫でも寄ってくれば可愛くもあり情も湧く。自分の内面を悟られまいとして石ころのような様相を纏えば誰も手を貸そうとはしないし共助を与えようとする霊人だって寄り付かない。従って運勢も来ない。がちがちに固まり壊疽の段階にある心情を溶かす必要がある。